2011/09/28

ワールドアローン


 俺には幼馴染がいる。
 名前は柏木アスカ。両親が揃って海外赴任しているため高校生にして一人暮らしをしている俺の世話を焼いてくれる、面倒見のいい幼馴染だ。容姿端麗で品行方正で成績優秀、グラマラスな身体つきと、随分とまあうさん臭いスペックである。
 アスカには非常に感謝している。親ぐるみの親交もあったおかげか、しばしば夕飯をご相伴にあずかることもあるし、家に来て朝食を作ってくれることもある。アスカがいなければ、随分と荒んだ生活を送っていたに違いないだろう。
 恐らく、アスカは少なからず俺に好意をいだいているのだと思う。普段の態度を見ればすぐ分かることだ。だが、俺はその気持ちに気付いておきながらも見て見ぬふりをしている。誰かと特別な間柄になるのは、とても面倒なことだ。
 俺はアスカのことが好きではない。無論、嫌いというわけではないのだが、不思議と心底信頼することが出来ない。向こうが懐っこく付いてきても俺は無意識に距離をおいてしまう。
 彼女はあまりにも出来すぎている。それこそ、気味の悪いほどの完成度だ。美少女の幼馴染だなんて、まるで気持ちの悪いオタクが好みそうな漫画やアニメに(あるいは十八禁美少女ゲームに)出てくるキャラクターのようで気持ちが悪い。彼女と接していると、まるでこの世界がキモオタの都合の良い妄想の世界であるかのような錯覚に陥ってしまい、俺は時々得体の知れない漠然とした恐怖に苛まれる。
 だから、俺は柏木アスカのことを受け入れることが出来ないのだ。


「……オくん!……ナオ君!」
 聞き慣れた声が俺を無意識から引き戻す。
「ナオ君、はやく起きないと遅刻しちゃうよ!」
「う……うぅん……」
 薄目を開くと、俺を見下ろす幼馴染のアスカの眩しいくらいの笑顔が見えた。アスカの長い髪が頬をくすぐってこそばゆい。
「ああ……アスカ……起きる、今起きるから……」
「おはよう、ナオ君。制服、そこに出しといたから、はやく着替えてね」
「ああ……分かった……」
 そう言って、初夏の朝日を浴びながらゆっくりと起き上がる。頭がぼんやりとする。洗面所で洗顔を済ませ、制服に着替えてからリビングへと向かった。
 アスカの用意した朝食を食べる。簡単ながらも、バランスの取れた朝食だ。
「アスカは食べないのか?」
「今日は家で食べてきたから」
「それだと二度手間じゃないか?」
「うーん、ナオ君の為だから、構わないよ」と言ってアスカは微笑んだ。
 俺は目を伏せる。こういう献身が、俺にとってはもどかしいのだ。自分の人生なんだから、もっと自分の為に過ごせば良いのに。
「そっか、ありがとな」
 俺は作り慣れた笑顔を返して、手早く朝食を食べ終えた。
 アスカと並んで学校へ向かう。随分と日差しが暑くなってきている。俺とアスカは、小学生の頃からずっと一緒に登校してきた。小学生の頃は、単純に誰かと登校するのが楽しかったのだが、今となってはただの作業となってしまっている。ある日、アスカが風邪で休んで一人で登校したことがある。とても新鮮だった。相手のことを考えずに済む、自分だけの世界がとても心地良かったのだ。
「そろそろ修学旅行だね、ナオ君」
 アスカが口を開いた。
「ん? そっか、もうそんな時期なんだな」
「どうしてうちの高校は七月に修学旅行があるんだろうね?」
「さあな……」
 興味なさ気に答える。実際、俺はそこまで修学旅行が楽しみではない。修学旅行よりはその後に控えている夏休みの方が楽しみだ。いかにして自堕落な日々を過ごすか。考えるだけでも胸が躍る。
「ナオ君、修学旅行楽しみじゃないの?」
「いや、別にそういうわけじゃないんだけどな。なんというか、面倒じゃないか?」
「うーん……そうかなあ? 私は楽しみだよっ」
「そうだろうな」
 そんな話をしている内に、俺は学校に着いた。

 教室に入る。クラスメイトのほとんどは既に登校済みのようだ。雑談をする者、ノートに向かい勉強をしている者、一人で机にうつ伏せて眠る者もいる。
「やあ、ナオト。おはよう」
「ああ、おはよう」
 自席に向かうと、友人の東ユウイチが話しかけてきた。
 コイツも俺の幼馴染だ。アスカほど長い付き合いではないが、かれこれ四、五年は付き合っている仲だ。正直な話、アスカよりもよっぽど心を許せる奴である。
 俺は鞄を机の横に掛けて、自分の席に座る。
「なあユウイチ。数学の宿題は終わったか?」
「ああ、終わらせてるけど……お前、また忘れたのか」
「違う、忘れたんじゃない。解けなかったんだ」
「本当かよ……」
「ああ。問題を眺めてみたんだが、俺の脳みその処理能力を明らかにオーバーしていた。だから、考える前に教科書を閉じた」
「要するに面倒だったんだな……ほら」
 ユウイチからノートを受け取る。
「うむ。助かる」
 ノートには数式が整然と並んでいる。非常に見やすい。まさに模範的なノートである。
 見ての通り、ユウイチは勉強が出来る男だ。学力チートを使っているとしか思えないのだが、未だに尻尾を掴めてはいない。だからといって極端なガリ勉というわけではない。むしろ、授業と宿題以外の勉強はやっていないそうだ。理不尽である。
 ホームルームが始まる前にノートを写し終えるため、模写作業に没頭することにした。

 退屈な授業(むしろ苦痛と言うべきか)も終わり、ようやく昼休みになった。食堂へ向かう者、友人知人と席を合わせて弁当を広げる者、様々な者がいる。
 俺は外へ出るクラスメイトに紛れて教室から出ようとする。だが、
「あっ、ナオ君、」
 アスカの呼び止める声が聞こえた。俺は顔をしかめる。大方、俺を昼食に誘おうというのだろう。面倒だ。俺は気付かないふりをして、そそくさと教室を後にした。アスカの寂しそうな顔は見なかった。
「ちょっと、新堂ナオト」
 凛とした声が俺を呼び止める。
「なんだよ」
 振り向くと、そこには俺を睨むように佇む女子生徒がいた。強い意志の見え隠れする瞳に、良くも悪くも理知的で整った顔つき。制服から伸びる手足は、華奢というよりはやや細すぎる。……九条ナナミだ。話をしているところを見たことがないが、彼女はアスカの友人らしい。
「気付いてたくせに。最低だ」
「何がだよ」
 九条ナナミはいつだって俺にいちゃもんをつけてくる。それが彼女にとっての娯楽なのかもしれない。普段は俺も大して気に留めていなかった。
「アスカの事。あんたの分の弁当持ってたのに」
「……知るかよ」
 ……今日はやたらと噛み付いてくるな。
「いつもアンタみたいな奴の為に弁当作ってんのに、いつも見なかったことにするんだね」
「うるさいな」
「ホント、下衆だ」
「黙ってろよ」
 九条を無視して隣を通り抜ける。九条の刺し殺さんばかりの視線が突き刺さるが、俺は気にせずに食堂へ向かった。
「…………なんなんだよ」
 くそ。
 昼飯はあまりおいしく感じられなかった。

 午後の授業が終わり、放課後になった。クラスメイト達は楽しそうにこれからの予定について話し合っている。各々、愉快で青春と友情と淡い恋心に充ち溢れた、美しくも儚く、そしてアンニュイな放課後を是非とも思う存分満喫して欲しいと思う。
 帰宅の準備を済ませる。とはいっても、鞄の中はいつも軽量級なのだが。
「ナオ君、一緒に帰ろう」
 アスカが俺を誘う。
「……ああ」
 特に用事も無いので頷いた。
 アスカと並んで家路に着く。途中までアスカは取り留めない話をしていたが、話のネタが尽きたのか、しまいには沈黙が流れた。俺も特に話すようなことは無いので、静寂もアスカの気まずい表情も気にせず、ただ黙々と歩いた。
 自宅が近くなった頃、アスカは口を開いた。
「ナオ君、今日のお夕飯は、」
「ああ、大丈夫だよ。今日は自炊するさ」
 言葉を途中で遮って優しく言ってやる。アスカは「そっか」と言って少し微笑むと、別れを告げて去って行った。
 その日の夕食は、コンビニ弁当だった。

 それは真夜中の出来事だった。俺は深夜にふと目が覚めた。先刻まで熟睡していたはずなのに、やたらと頭がクリアだった。窓の外に奇妙な光を見つけた。俺は何も考えずに家を飛び出し、引き寄せられるかのように光の落ちた方向へ向かった。落下地点は、家から少し離れたところにある古い廃アパートのようだった。
 俺が廃アパートに辿りつくと、ちょうど一人の男が廃アパートから出てくるところだった。三十代くらいの男だろうか、まるで会社に忠実に飼い馴らされたサラリーマンのような顔を、随分やつれさせていた。耳にはヘッドホンにも似た見慣れない装置を着けていた。見掛けぬ顔だった。俺は反射的に物陰に隠れて様子を伺った。
「ここは、とても良い所だな……」
 男は口を開いた。俺の存在に気付いたのかと思ったが、どうやらそのようではないみたいだった。男は「良い所だ、良い所だ」と何度も感慨深そうに呟いた。
「なあ、そう思わないか、少年よ」
 男は突然俺の方を向いて笑った。男が近付いて来る。
「いい目をしているな、少年。私の娘と同じ目だ」
「は、はぁ……」
 男が何を言っているのかよく分からず、生返事を返した。
「まあ、いい。私は少々やらねばならぬことがあるのでね」
 そう言って、男は廃アパートへと消えて行った。奇妙な光の事を訊こうと思っていたのだが、すっかり失念してしまっていた。今更追い掛ける気にもならず、俺はただぼんやりと立ち尽くしていた。
 ふと、廃アパートから小さな少女がひょっこりと現れた。小学校高学年くらいの子だ。先程の男の面影がそれとなく見えることから、この子が娘なのだろうかと思った。それにしても、この子のは随分と淡白な表情をしている。同年代の子供の楽しみの半分もない程の人生を送ってきたかのようだ。いや、楽しみだけではなく、あらゆる感情が水で薄められたかのようだ。この子の笑う顔も泣く顔も怒る顔も想像がつかない。ただ、ずっと飄々と澄ました顔をしていそうだった。
 少女は僕の顔を一瞥すると、再び廃アパートに戻ろうとした。
「ま、待った」
 思わず引き止めてしまった。少女が足を止めて顔だけ振り返る。
「き、君は、一体誰なんだ? それにさっきの男は?」
「……さっきの人は、私のおとーさん。悪い人じゃないよ」
 そう言って、少女は廃アパートに消えた。
 よく分からなかったし、何も理解できなかった。だが、気が付けば俺は自分の家のベッドに倒れ込んで目を瞑っていた。

     *

 翌朝も俺はアスカに起こされた。アスカが用意した制服を着て、アスカが用意した朝食を食べて、アスカの隣を歩いて学校へ向かう。いつも通りの反吐が出るほどベタな流れの朝だ。アスカの他愛も無い世間話に適当な相槌を打ちながら校門を抜けて教室に入る。
「やあ、ナオト。おはよう」
「ああ、おはよう」
 ユウイチと挨拶を交わして自席に座る。
「ところでユウイチ、数学の宿題は終わってるか?」
「またかよ……ほら、はやく書き写せよな」
 ノートを受け取る。
「うむ、サンキュー」
 さて、ここで俺の名誉のために弁明しておこう。俺は別に数学の宿題が面倒だったとか、解答できなかったとか、そういう低俗な理由で放棄したのではない。教師は生徒に宿題を与えるというプロセスを踏ませることによって生徒を教師の忠実な飼い犬に仕立て上げ、そのことによって支配的な優越感を得ているのであり、俺はそんな教師の虚栄心を満たすために宿題をこなすなど真っ平御免なのである。じゃあどうして今宿題を写してるのかって? 誰だって教師に目を付けられたくはないだろう? つまりはそういうことだ。念を押しておくが、決して面倒だったわけじゃないぞ。決して違うぞ。
 さて、ノートを写し終えた。まだホームルームまで時間があるが、特に何をするわけでもなくぼんやりとしながら時間を潰した。

 授業の半分を寝て過ごし、昼休みを迎えた。いつも通り、アスカに呼び止められる前に教室を出る。アスカは今日も弁当を二つ持って来ていた。
 廊下で九条ナナミと出くわし、グチグチ言われながら食堂へ向かう。本当に、一体彼女は何なんだろうか。いつも俺のストレスを蓄積させて、彼女は飽きないのか。飽きないんだろうな。悪意を込めたコミュニケーションはまるで麻薬のように快感だから。
 昼飯はやはりあまり美味しく感じられなかった。

 午後の授業も無難にこなし、放課後になった。アスカの誘いを「ユウイチと遊びに行くから」と言って断る。アスカは寂しそうに先に帰った。このまま嘘にするのも気が引けるので、ユウイチを誘った。ユウイチは親に用事を押し付けられてるからと言い、申し訳なさそうに断った。
 俺は直帰することにした。

「やあ、少年」
「ああ……どうも」
 道中、昨夜の男と出くわした。男はあまり似合わない白衣を着ていた。やはり耳にはヘッドホンのような機械を付けている。娘も一緒のようだ。
「浮かない顔をしてるな。ん? この私に言ってみろ」
 馴れ馴れしく言われた。
「いえ、特に何もないです。大丈夫です」
「そうか、君がそう言うなら無理強いは出来んな」
 そう言って男はさも愉快そうに笑った。
「……どうして、あなたはそんなに楽しそうなんですかね」
 思わず口から言葉がこぼれてしまった。少し刺のある言い方になってしまったかもしれない。
「楽しそう? ふむ、確かにそうだな。つい最近までとても大変だった。それこそ、いっそ死んでしまう方が楽なんじゃないかってくらいだったからなあ。だが、私は過去の辛苦を他人に語るのが嫌いでね」
 男は娘の頭に手を載せた。
「今は娘と共に平穏に暮らすことが出来る。それだけで十分じゃないか」
 男は笑んだ。
「……そう、すか」
 そう言って、俺は別れを告げて家に帰ろうとした。
「そうだ、少年。君の名前はなんという?」
「……新堂ナオトです」
「そうか、シンドウナオトというのか。私は、タスクという。娘はツバルという。これから、よろしく頼むよ」
 やけに親密に思われてるな、と思った。
 それにしても、タスクにツバル。彼らは日本人ではないのだろうか。それにしては、あまりにも流暢すぎる日本語だった。
 まあ、そんな人もいるだろう。深く考えずに、俺は家に帰った。

 家でくつろいでいると、インターホンが鳴った。出なくても大方の予想はついた。
「あ、ナオ君。お夕飯、まだだよね?」
 アスカだった。
「ああ、まだだけど……」
「うちのおすそ分け持ってきたんだけど、食べる?」
 アスカは鍋を俺に見せた。匂いからしてカレーのようだ。
 まだ夕食は作っていない。面倒なのでコンビニ弁当か、どこか手近なところで外食で済ませようと思っていたところだった。これは良いタイミングだ。
「いいのか? 悪いな」
 作り上げた笑顔を浮かべる。
「いいのいいの。私、今日ちょっと作り過ぎちゃったから」
 鍋を受け取る。十分な量が入っているようだ。
「サンキュー。じゃあな、アスカ」
「あ、うん。バイバイ。また明日ね」
 鍋を持って家に入る。
 アスカの手料理は美味かった。久々に夕飯で満足な量を食べられた気がする。
 翌日、アスカは張り切って起こしに来るだろう。夕食を貰った次の日はいつもそうだった。
 風呂に入り、適当なテレビ番組を観てから俺は眠りについた。

     *

 朝、目覚まし時計の音で目が覚めた。強い違和感を覚えたが、懐かしい音だった。アスカの姿が見えない。風邪でも引いたのだろうか。珍しいこともあるものだ。何にせよ、アスカに起こされない朝は清々しいものだった。自由とは偉大だ。
 自分で制服を用意し、自分で朝食を準備する。とはいっても、棚の奥にあった菓子パンを食べただけだ。たまにはこういう朝飯も良いものだ。俺は自堕落で適当な生活を求めていたのだ。
 一人で学校へ向かう。アスカの家に寄って様子を聞こうか少し悩んだが、面倒だった。一人の通学路は、記憶通りにとても新鮮で心地良いものだった。

 学校が近付くにつれて、俺は違和感を覚え始めた。具体的な説明はできないが、どこかがズレているような感覚があった。
 教室に入ると、クラスメイト達は席に座って談笑をしている。ごくありふれた光景だ。俺はその中に強い違和感を目視する。柏木アスカが教室にいる。俺よりも先にだ。特に怒りなどは沸かなかったが、そこには安堵感と、もう一つ、得体の知れない感情が燻っていた。
 アスカに今朝来なかった理由を尋ねようかと思ったが、薮蛇にならぬよう、明日以降も一人で登校出来るように、ただ俺は自席に座った。
 再び強い違和感。教室に入ってから、俺はまだ誰とも挨拶を交わしていない。普段から頻繁に挨拶をするような人間ではないが、今日はまだユウイチの「やあ、ナオト。おはよう」を聞いていない。ユウイチは休みなのだろうか。
 ユウイチの席を見る。
 いる。東ユウイチは学校に来ていた。クラスメイトと楽しそうに談笑している。ユウイチの方へ向かう。
「……やあ、ユウイチ。おはよう」
「おはよう、新堂」
 ――新堂。
「あのさあ、俺、数学の宿題忘れちゃったんだけど……ノート、写させてくんないかな」
 ユウイチは困った風に笑う。見たことのない表情だ。
「おいおい、宿題は自分でやらないと意味無いだろ」
 そう言ってクラスメイト達と笑う。
「……あ、ああ、そうだよな、その通りだ。自分で済ませるよ」
 困惑を隠しつつ自席に戻る。
 ……おかしい。違和感どころの問題ではない。まるでユウイチではない、別の人間と話していたような気分だった。
 数学の宿題を手早く済ませる。この程度の問題などあまりにも楽勝だ。
 教室を見渡す。みな一様に雑談に花を咲かせている。一人の漏れもなく。おかしい。勉強だけが生きがいの奴も、友達が極端に少ないアイツも、誰も彼もが談笑している。
 俺が呆気に取られていると、担任教師が教室に入ってきて点呼を始めた。誰も私語をしない。皆、同一の音量と同一の抑揚で点呼に応答する。気味が悪い。俺は怖くなり、一心不乱に数学のノートを見直すことにした。
 俺は何が起こったのか考えないように授業に没頭して午前を終えた。

 昼休みになった。俺は食堂に向かう為に教室を出ようとする。アスカのほうをちらりと見る。アスカは弁当を一つしか持っていなかった。教室を出ても、アスカに呼び止められることはなかった。
「新堂ナオト!」
 凛とした声がけたたましい廊下に響く。その声は心なしか焦っているように聞こえた。だが、とても現実味のある声だ。
「九条、お前……」
 九条ナナミが慌てて駆けてくる。
「新堂! あ、あんたは、違うの!?」
 どうやら九条は錯乱しているようだ。その気持ちも、俺はよく理解できる。
「九条、落ち着け。何が起こったのか、整理してゆっくり説明しろ」
「そんなの出来るわけない! だって、みんなおかしくなったんだ!」
「だから落ち着けって。……そうだな、ちょっと昼飯買ってくるからさ、食べながらゆっくり話そう」
「わ、分かった……」
 九条がやけに小さく見える。まあ、分からなくもない。自分でも、取り乱していないのが不思議なくらいだ。

 食堂でパンをいくつか買い、九条を連れて屋上へ出た。なるべく人が少ない所で話をしたかった。夏場の屋上は人が少ない。夏の日差しが直撃するからだ。とはいえ、いつも無人というわけではない。給水塔の影に入れば直射日光は避けられるし、多少は風も吹く。だが、今日は完全に無人だった。
 九条が給水塔の日影に移動されたベンチに座る。これは、横に座ってもいいのだろうか。
「座らないの?」
 そう言って九条は地べたを指さした。どうやら多少は落ち着きを取り戻したようだ。だからといって地面に座らせることはないだろ。そう思って、俺は九条と向かい合う形で地面に座り込んだ。
「さて、九条。お前は他の奴等みたいにはなってないみたいだな」
 九条は頷いて口を開いた。
「おかしくなってないのは私とあんただけ……他の人達は、みんな一律に同じような性格なってる」
「そうだ。ハブられてた奴とか、いじめられてた奴もみんな同じ輪に入って話をしてた。スクール・カーストなんて無くて、みんな同等の立場にあるようだったな」
「個性が無くなったみたいだった」
 九条と意見を言い合う。
 個性が無くなって、みな同様の人間になったかのよう。そういうことだった。
「生徒だけじゃなくて、教師もみんなそうなってた。いつもはジョークを飛ばす先生も、ただ淡々と授業を進めるだけだった」
 九条は言った。
「つまり、生徒だけじゃなくて、俺たち以外全員そうなったっていうのか」
「そういえば、ママも今朝はやけに素っ気なかったような……」
「お前、家じゃママなんて言ってんのか」
「う、うるさいな」
 九条は恥ずかしそうに言った。九条に初めて言い合いで勝った気がする。
「と、とにかく。この学校だけじゃなくて、街中、いや、最悪の場合、日本中がこうなってるのかもしれない」
「それは……とんでもねえ事だな」
 考えるだけで目眩がする。一億以上の人間の中身が同じものなのかもしれないのだ。
「最悪の事態は考えないようにしよう。気が滅入るだけだ」
「……そうね」
 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
「九条、お前はどうする?」
「どうするって……何が?」
「俺はこれから町を歩き回ってみる。……正直、このまま学校にいたら正気を保てない自信があるからな」
 俺は冗談交じりに言った。
「……私も、堪える自信がない」
「じゃあ一緒に行くか」
 九条は頷いて立ち上がった。俺も立ち上がり、屋上を後にした。

 昼下がりの町中を二人で行く当てもなく歩く。交わす言葉は無く、初夏の太陽がやけに蒸し暑く感じられる。人通りは少ない。稀に通りすがる人も、みな一様に現実味の無い顔だった。いくら歩きまわっても、ただ現状は最悪の事態に近いということを確認しただけだった。
 絶望がゆっくりと身体を蝕むのを感じた。
 身体中の生気が抜け落ちた気分だ。底知れぬ絶望感。俺はこれからどうすればいいのか。
「新堂、ちょっと休もう。少し疲れた」
「ああ……そうだな」
 近くの公園で休もうと思ったが、子連れの主婦が多く見られる。いつもはここまで多くはないはずなのに。
「……別のところにしよう」
「ああ。気味が悪い」
 公園で遊ぶ子供たちは、ケンカ一つせずに楽しそうに遊んでいる。主婦たちはそれを見ながら微笑ましそうに雑談をしている。グループも派閥もなく、人類みな家族だと言わんばかりに仲良くしていた。
 俺たちは公園を逃げるように後にする。
「待ちたまえ」
 男の声がした。
 俺たちは驚いて振り向いた。
「タスク……」
「昨日ぶりだな、少年」
 タスクは落ち着き払った素振りを見せているが、心の奥では動揺しているのがわかった。
「あなたも、何ともないんですか」
「うむ。この装置のおかげでな」
 そう言ってタスクは耳に付けた機械を指さした。
「君たちに話がある。君たちが知りたい事も話せるだろう。来るか?」
 俺と九条は顔を一度見合わせて頷いた。

 俺たちは例の廃アパートに連れて行かれた。
 廃アパートの中は普通の部屋だった。廃屋の中とは思えない、外見とはかけ離れた小綺麗さだ。さほど広くない一部屋でツバルは本を読んでいた。
 タスクと俺たちはちゃぶ台を挟んで向い合って座った。
「さて、まず君たちにこれを渡しておこう」
 ちゃぶ台の上にヘッドホンのような装置が二つ置かれる。タスクが着けているのと同じものだ。
「今すぐ着けてくれ。即効性がある」
 言われたとおりに装着する。側頭部に少し違和感があるが、すぐ慣れるだろう。
「何から話したら良いものか……そうだな、私の星で起こったことは省いて話そう」
 聞き間違いでなければ、星と言った。もしかして、SF的な話なのか?
「まず、君等以外の人間が掛かっている病気について話そう」
「病気なんですか、あれ」
 九条が口をはさむ。
「そうだ。正式な病名は無いのだが、我々はこれを無個性症候群と呼んでいる。およそ二十四時間の潜伏期間の後に個性が消滅する急性感染症だ。通常はインフルエンザウイルスと同じように飛沫感染や空気感染によって、驚異的な速度で感染拡大する。恐らく、もうこの国のほとんどの住人は感染済みだろうな……感染者は、個性が消滅し、総じて画一化された善良な性格に変化する」タスクは一旦区切った。「……なお、この感染症の治療法は存在しない」
 九条の息を呑む音が聞こえた。
 まさか、もうどうしようもないなんて。
「しかし、予防法はある。それがこの装置だ。ざっくばらんに説明すると、ウイルスの影響が脳に届く前にそれをプロテクトして発症を抑える装置なのだが……まあ、あまり考えずに装着して欲しい。肝心なのは原理ではなく、予防できるという事実だ」
「私たちが感染してない理由は?」
「稀に、それこそ数千万人に一人ほどの確率で、免疫を持った人間がいる。私の娘もそうだ。完全な免疫力を持ったのは、私は娘一人しか知らない。君等に会えたのは、奇跡的な確率なのだ」
 タスクは立ち上がり、部屋の奥にあった仕切りのカーテンを開いた。そこには見たことのない機械類が並んでいた。
「君等の免疫力を計測したい。協力してくれるか?」

 俺と九条はヘッドギアのような形状の装置を付けられたり、血液検査などの様々な検査を受けた。結果、二人とも完全免疫者ではないらしい。
「しかし、この装置があれば大丈夫だ。問題ない。発症までは至らないだろう」
 タスクはそう言って俺たちを安心させた。
 全ての検査結果を聞いて廃アパートを立ち去る時には、もう日が暮れていた。廃アパートを出る前に、俺と九条とタスクは携帯電話の番号を交換した。タスクは、また明日来いと言った。
 帰り道、俺と九条は無口だった。何を言えばいいのか分からなかった。
 俺の自宅の前に到着した。九条の家は更に先にあるらしい。
「じゃあな、九条。また明日」
 俺は挨拶をしたが、九条は返さなかった。どうしたのかと思い、九条の顔を見る。
「あ、あのさ、新堂……」
「どうした」
 夕闇でよく見えないが、九条の顔は真っ赤に見えた。
「……その、今日は、新堂の家に居たら、駄目か?」
「へっ?」
 間抜けな声が出てしまった。
 なんと。
 信じられない。
「ど、どうしてまたそげな事をおっしゃいますやら……」
 動揺が隠しきれぬでござる。
「……怖いんだ。すごく。明日目が覚めたら、もしかしたら自分が自分じゃなくなってるかも知れないのが、すごく怖い」
「あの人が、俺たちは大丈夫だって言ってただろ」
「分かってる……分かってるけど、それでも怖いんだ……。自分だけじゃなくて、もしかしたら、新堂もおかしくなってるかもしれない……」
「だから、大丈夫だって」
「あの人の言うことが本当だとは限らないっ……それに、おかしくなったママになんて会いたくない……一人になりたくない……」
 九条が俺にしがみついた。目が潤んでいる。勝てっこない。
「……仕方ないな、今日だけだからな」
 俺は恥ずかしくてそっぽを向きながら言った。
「ありがとう……」
 九条は礼を言った。

 さて、ここで問題が起こった。
 困ったことに、俺はほとんど料理が出来ない。上手に作れるのといったら、カップラーメンやレトルトカレー、お茶漬けくらいだ。
 まさか客人(しかも異性)にそんな粗末な料理をお出しするわけにはいかない。昨日アスカに貰ったカレーは一人前も残っていない。
「あのさあ、九条。実は俺さ、料理出来ないんだ」
「じゃあ、私がやる」
 ということで、九条が晩飯を作ることになった。あれだけ俺に苦情を言いまくってきた(九条だけに)あの九条ナナミが、俺の夕飯を作るのである。信じられない。だが、確かに我が家の台所からは調理の音が聞こえてくる。なんてこった。英語で言うとホワッツザファックって気分だ。
 出てきた料理は、至極普通のものだった。普通に美味い。ここで「どう? おいしい?」と聞かないところが九条らしい。俺も、率直に美味いというのは多少気恥ずかしいのだ。
 風呂を済ませ、ソファーにだらしなく座って適当なテレビを見てくつろぐ。どのチャンネルも同じようなバラエティとニュースしかやっていない。まったく楽しめない。俺は適当な映画のDVDを取り出して、それを見ることにした。しばらくして九条が来て隣に座った。シャワーを浴びてきたようだ。同じシャンプーを使っているはずなのに、いわゆる女の子の匂いがする。意識してそれを意識外に追いやって映画に集中する。しかし、九条の文句によって映画を始めから見直すことになった。同じところを二度観るのはつまらないが、我慢した。
 映画を観終わり、寝ることにした。俺はソファーで寝るからベッドで寝ろと言ったが、九条は突然人の家に押しかけておいてベッドまで占領するのは心苦しいと言って、俺はベッドに、九条はソファーで寝ることになった。
 疲れていたのか、俺はベッドの上に寝転がるなり、数分もせずに眠りに落ちた。

     *

 俺を起こす声が聞こえる。しかしまだ眠い。もう少し寝ていたい。
「……ん……もう少し、寝かせてくれ……アスカ……」
 肩を強く揺さぶられる。アスカはこんな荒っぽい起こし方をしない。
「……おい、起きろ、新堂」
「ん……あぁ、九条……」
 そうだ、昨日は九条が俺の家に泊まってたんだったな。
 あくびを一つ、起き上がる。まさか、九条が俺を起こすなんて。そこまでしてくれるとは思わなかった。
「おはよう、九条」
「あ、ああ。おはよう」
「ところでさ、今日は学校に行くか?」
 九条に尋ねる。
「……いや、あんなとこ行っても無駄だろう」
「そうだな」
 洗面所で洗顔を済ませ、私服に着替えてリビングに向かう。
 テーブルには朝食が用意してあった。
「朝食までお前に任せてしまったな、すまん」
「いや、構わない」
 九条はそう言って椅子に座った。俺も椅子に座る。
 朝食も美味かった。

 その後、俺たちは耳に付けた機械の話などをしながら町中を歩きまわった。やはり、人通りは少ない。公園には主婦と子供たちが群れて戯れていた。商店街も主婦で溢れていた。
「本当に、みんな駄目になってしまったんだ」
 九条がふと呟いた。
「……そうだな」
 俺は、そうとしか言えなかった。
 個性を無くしてしまった人は、もう既に生きていないんだと思った。ただ動いてるだけの自動人形と大差無い。もしも俺がこういう風になったらと考えると、確かに恐ろしかった。九条の気持ちも分かる。しかし、恐ろしいと同時に、今のようにこうやって取り残されるよりもいっそ周りと同じようになってしまったほうが楽なのかもしれないという思いもあった。
 しばらく並んで歩き回っている内に昼になった。ファーストフード店で昼食を摂ることにした。店員は完全にマニュアル通りの対応をしてくれた。張り付いた笑顔が眩しかった。
 昼食を食べ終えると、俺たちはタスクのいる廃アパートへ向かった。
 タスクは廃アパートにいた。「よく来てくれた」と言い、俺に笑顔を見せた。先日、来いと言っていたのに、特にこれといった用事は無さそうだった。九条は娘のツバルと楽しそうに遊んでいる。子どもが好きなのだろうか。
 遊んでいる二人を見て、タスクは九条に言った。
「すまないが、ちょっと娘を見ていてくれないか」
 九条は頷いた。
 俺は廃アパートの外に連れ出された。
「なんなんすか」
「重大な話がある。聞いてくれ。私はこの星を去るつもりだ」
 タスクの目は鋭く俺の目を見ている。本気だ。
「……それは、あんたがこの星の人間じゃないって事でいいんすか」
「そうだ。私はこの星から遠く離れた、それこそ数十万光年以上離れた所にある惑星から来た。私の星でもこの病は蔓延したよ。……そうだ、不運にも、私がこの病を持って来てしまったのだ」
「あんたが……ッ!」
 タスクの胸ぐらを掴む。それでもタスクの視線は離れない。
「昨日も言った通り、この病は不治だ。どうしようもない。だから、次は宇宙船を完全に無菌の状態にしてから新たなる開拓済みの星を探すつもりだ」
「あんたは、この星に勝手に踏み込んで、勝手に踏み潰してから逃げるっていうのかッ!」
「そうだ。もう手遅れなんだ。今更修正なんて効かない。この星は、諦めるしかないのだ」
「あんたは……最低の人間だよ。下衆だ」
「何だって良い。とにかく、私はこの星を去る。そこでだ、少年よ。君も私たちと共に来ないか。新天地へ」
「……ふざけんなよ」
「ふざけてなどいない。私には娘がいるのだ。娘をこんな環境の世の中で育てられるものか」
「……一つ質問がある」
「なんなりと」
「どうして九条を誘わない」
「……ふふ、鋭いな、少年」
「早く話せ」
「九条ナナミ……彼女は、手遅れだ。あの装置は脳への影響を遮断するものだ。だが、既に彼女の脳はウイルスの影響を受けてしまっていた。通常よりは多少免疫力があったようだが、せいぜい猶予が一日延びただけだ。彼女は明日にも無個性症候群を発症させて、個性を失うだろう」
 タスクが九条を誘わない時点で予想はしていたが、それでもやはりショックだった。思わずタスクを掴んでいた手を放してしまう。
「君の脳はまだ無事なんだ。装置を着けていれば、発症することはない」
「……そうか……分かったよ……」
 俺は廃アパートに戻ろうとする。
「明日の早朝出発する。それまでに来てくれ」
 タスクの声が後ろから聞こえた。

 その後のことはよく覚えていない。ただぼんやりと九条とツバルを眺めていただけだったような気もする。色々考えを巡らせていたような気がするが、何もかもすっぽり抜け落ちてしまっている。完全に無気力だった。
 日が落ちてから、俺と九条は廃アパートを後にした。ツバルが九条に手を振っていた。二人は随分と仲良くなったようだった。彼女は明日、全ての個性を失ってしまうが。
 家の前に着く。九条は、もう一日だけ居させて欲しいと頼み込んだ。しかし、俺は拒否をした。無個性症候群を発症させた九条なんて見たくなかったからだ。九条はとても悲しそうな顔をしたが、俺が明日は泊まらせてやるからと言うと、可愛らしく笑って、なんとか了承してくれた。その笑顔があまりにも辛かった。彼女は明日、全ての個性を失ってしまうからだ。
 夕飯は食べる気がしなかった。まったく食欲が湧かなかった。風呂にも入らず、ベッドに倒れ込む。別れ際の九条の笑顔が脳裏から離れない。九条のあの笑顔が消えてしまう。九条の罵詈雑言を聞くこともできなくなってしまう。なぜなら、彼女は明日、全ての個性を失ってしまうからだ。
 九条から電話が掛かってきた。携帯電話を手に取る。多くは話さなかった。だが、それでも九条に安堵を与えることは出来た。「おやすみ」と言い合って電話を切る。彼女は明日、全ての個性を失ってしまう。
 意識はゆっくりと無意識へとシフトしてゆく。目が覚めると、彼女はすべての個性を失ってしまう。

     *

 目覚まし時計の音で目が覚めた。頭がスッキリしない。時計を見て早朝であると確認をする。
 俺はゴミ箱に叩きつける。中の配線を見せながら、それはバチバチとショートして壊れた。
 制服に着替え、廃アパートに向かう。廃アパートの前には、タスクが立っていた。
「やあ、タスク」
 俺は言った。
 タスクはひどく驚いた表情を浮かべた。
「……装置はどうした。なぜ装着していない」
「ぶっ壊した。今頃、俺の脳みそはウイルスに蝕まれているだろうな」
「馬鹿か! どうして希望をぶち壊しやがった!」
「俺はここに残る。てめえなんかとは行かねえ」
「お前はガキだ! それは若さなんかじゃない! 幼さで物事を理解出来ていないだけだ!」
「大人ぶって星一つを駄目にするよりはましだ」
「いくら免疫力が強いとはいえ、お前は完全免疫者じゃないんだ! いずれは九条ナナミと同じ運命を辿る! そのことが分かってるのか!」
「分かってるさ。分かってて、こうしたんだ」
「……そうか、もうどうしようもないな。見損なったよ、シンドウナオト。お前も完全免疫者じゃないんだ。いずれ朽ちる。じゃあな。私はもう行く」
 タスクは廃アパートへと消えて行った。
 その背中は、まるで生涯を捧げてきた会社に晩年に裏切られたサラリーマンのような背中だった。
 しばらくして、廃アパートから見覚えのある光が空へと飛び立っていった。
 俺はそれが見えなくなるまで一人で見送った。

 学校へ向かう。ホームルームが近づくと、九条ナナミが登校して来た。彼女の瞳に宿っていた強い意志と活力は、見る影もなく消え去っていた。
 九条ナナミも東ユウイチも柏木アスカも、同じ人間になっていた。
 それを見ると、俺は遂に一人になったんだな、と認識した。
 無気力かつ無難に学園生活を送る。誰とも話さない。誰も話しかけて来ないからだ。どうやら、感染者は極力、非感染者との接触を行わないらしい。授業中に指名されることすらなかった。

 最初の数日はなんとかやっていけた。
 たまに気が狂いそうになったけど、それでもなんとか自我を保った。辛かった。
 一週間もすると、学校に行けなくなった。人の顔を見るだけで嘔吐感が込み上げた。
 それからはよく覚えていない。
 ただずっとカーテンを閉め切った部屋に閉じ篭っていた。何もせずにただぼんやりと過ごした。暗闇が心地良かった。
 たまに衝動の波が襲った。孤独でいる恐怖に堪えられなかった。
 外へ行っても、同じ顔で同じ表情で同じような事しか言わない人間しかいない。
 唯一自分を保てる場所は、自分の家だけだった。その家ですら、孤独が俺の精神を蝕んだ。その絶望が俺を襲うのだ。喚き散らし、見当たる物全てを力づくで薙ぎ払った。椅子もテーブルもソファーもテレビも、何もかもをぐちゃぐちゃした。食器やガラスが割れて散らかった。部屋は元の面影もないほどに滅茶苦茶になった。いつの間にか溢れてきた涙で前が見えなくなる。俺は床に倒れる。ガラス片が背中に刺さって痛かった。その痛みが唯一の現実だった。
 そうして落ち着いた頃、俺は人の温もりを欲した。九条の笑顔でも良い。ユウイチのノートでも良い。アスカの弁当でも良かった。何でもいいから、個人の痕跡がどうしようもなく恋しくなった。
 その内、暴れるのすら億劫になった。ベッドの上に倒れて呼吸をして、ただ生命を浪費するだけの存在になっていた。
 意識と無意識の境目すら曖昧になってきた頃、ようやく俺は人格の薄れを感じた。どこまでも無慈悲で無個性だが、唯一の救いだった。
 フェードアウトする意識が優しい。無機質な世界が待っていた。