2013/01/20

真夜中のおおかみ


 今となっては生活することに何の価値も無いように思えた。
 社会派映画のような暴動や革命が起こるわけでもなく、ただ、目的も意味も無い生活に怯えているだけだった。映画に憧憬を抱くことの不毛さが、僕の生活に根付いてしまっていることに気付いた時にはもう手遅れだった。かつてのような創作意欲も見つからず、それどころか自然に思考することすら出来なくなってしまっていた。
 体調が優れていると感じたのは随分と昔のことで、今は腸に泥が流れているような感覚が染み付いて離れない。思考は鈍く、文章を読むことすら億劫で仕方がなかった。全身が停滞しているようだった。
 僕はベッドの上から動けないでいた。開け放しの窓から温い風が入り込むこともなく、映画ポスターや宗教画の貼られた部屋は停滞していた。物が雑多に溢れているが実用的なものは数少ない。乱雑な絵が描かれた薄い再生紙が散らばっていた。この部屋で海の音は聞こえない。

 町に人食い狼が出るという噂を聞いた。なんと物騒なのだろう。僕は怯えと共に好奇心を覚えた。
 ベッドに寝転がったまま、手を伸ばしてテーブルの上のラジオを切る。やがて静かになった。本を読もうと思い、横にある文庫本を掴んだが、どうせまともに頭に入らないのだから意味が無い。
 それにしても、人食い狼である。恐ろしいが、なんて心躍る噂なのだろう。たまには自発的に外出するのも良いかもしれない。僕は床に置いてあるカーキ色のハンチングを手に取って部屋を後にした。
 商店街の細い歩道を腰の曲がった老婆がよろよろと歩いて行く。食材の入ったレジ袋を抱えていた。確かに夕方なのだと思った。
 それにしても久々の外出だ、しかし僕は毎日学校に行っている。生真面目な性格だからだ。こればかりはどうしようもない。意味もなく出掛けるのが久々なのだ。いや、今まで無目的に出歩いたことなど無かったのかもしれない。そう考えると随分とましな気分になった。
 商店街よりひとつ外れた路地を歩く。路地には僕ひとりしかいなかった。この薄汚れた白いシャツを見て眉をひそめる人がいないのは、僕の心を随分と軽くさせる。しかし、そこで行き先が無いことに気が付いてしまった。昔から目的を決めずに行動するのは苦手だった。何をしていいのかわからないのだ。無意味なものを買うのは好きだったが、無意味な行動を取るのは嫌いだった。
 路地の先には大通りと、大通りに沿って流れている川に架かった橋が見えていたが、僕は引き返そうと後ろを振り向いた。なんてことだ、もう部屋の外に出ているのが嫌になってしまった。くらくらしてしまう。無理をするべきじゃなかった。気が重くなり、腹の底からじわじわと吐き気が現れてくる。身体が泥のように冴えない。
 物陰から物陰へと何かが素早く動いたのが見えた。狼だ。一匹だけじゃない。二匹、いや三匹はいる。もっと多いかもしれない。とにかく、僕の目の前には狼がいる、そしてそれらは僕のことを間違い無く狙っているのだ。恐怖を感じる。理解の及ぶ前に感じる本能的な恐怖。それは宇宙的恐怖にも似ていた。底知れず恐ろしいのだ。僕は逃げ出した。逃げなくちゃいけないという漠然とした義務感だけがあった。
 気がつけば橋の手前まで走っていた。人食い狼たちはもう追いかけて来なかった。電柱に寄りかかって息を整える。
 僕に近寄ってくる人がいることに気が付いた。見覚えがある顔、幼馴染だ。
「ねえ、大丈夫?」
 彼女は慌てて駆け寄ってきた。
「ああ、由紀、大丈夫、大丈夫だよ」
 荒い呼吸を抑え切れない。僕は心配そうな顔をしている由紀を見つめた。
「どうしたの? ねえ、何かあった?」
「狼が……人食い狼に遭ったんだ。だから、慌てて逃げてきて……」
 由紀は驚いたような表情を浮かべた。
「それは大変だったねえ」
「殺されるかと思ったんだ」
「大丈夫だよお、心配しないでいいんだよ」
 由紀は僕の肩にそっと手を置いた。安心感が生まれる。由紀はいつだって優しい。
 息が整うまで、由紀は僕の肩に手を置いてくれたままだった。落ち着いた僕は由紀を見る。茶色がかったショートヘア。いつもの由紀だ。辺りはもうすっかりと暗くなってしまっていた。
「ありがとう、由紀。もう落ち着いたよ」
「うん。良かった」由紀は笑顔を浮かべた。「どう、一人で帰れそう? 家まで送ろうか?」
 僕は由紀に家まで送ってもらうことにした。みっともないとは思ったが、人食い狼に遭遇してしまうことを考えるとどうしても一人ではいられなかった。道中、由紀は人食い狼の件について一度も触れて来なかった。おかげで僕はあの恐怖を思い返さずに済んだ。
 由紀に礼を言って部屋に戻ると、僕は鍵をかけてベッドに寝転がった。ベッドは暖かかったが、部屋は相変わらず重苦しいままだった。疲労感が溢れだす。やはり身体は泥のようだ。全身、特に腕に力が入らなくなってくる。頭の中で人食い狼のことがぐるぐると回りだした。僕は忘れようと努める。その内、僕は眠りに落ちてしまった。

 淀んだ部屋で目を覚ます。朝だった。意識が極端に重い。二日酔いにも似た不快感があった。ベッドから手を伸ばしてテーブルの上に置いたままのパンを食べる。味を感じられるほど目が覚めていない。食べ終わっても僕は起き上がることが出来ず、また眠ってしまった。
 数分して再び目が覚める。そろそろ用意をしないと授業に間に合わない。学校に行かなくてはいけない。棒のような腕に力を入れて起き上がり、ふらふらと用意を始めた。
 学校までの道のりも重苦しかった。頭から人食い狼の姿が離れないのだ。
 一日の授業が終わった。気分が優れることはなく、ずっと座って話を聴いていた。ノートを取ることは無かった。必要が無いように思えたからだ。
 家に帰ろう。そう思って僕は自転車に跨る。賑やかに会話をする学生たちの横を過ぎて行く。たばこ屋を過ぎ、洋食屋、自転車屋の前を通ると僕の住むアパートがある。自転車屋を過ぎた辺りで僕は異変に気が付いた。まただ、また人食い狼がいる。アパートの前の小さな広場に昨日の人食い狼が五匹もうろついている。やはり僕を狙っているのだ。用心して道を引き返す。
 町中をぐるりと回った後、アパートに戻ると人食い狼たちの姿は消えていた。赤ん坊を載せた自転車を漕ぐ女性が広場を横切って行った。僕は安心してアパートに戻った。
 部屋に入ると僕はしっかりと鍵を閉めて、鞄とハンチングを床に置いてベッドに倒れこんだ。今日こそは本を読もう。身体が重くても本は読めるのだ。
 いつの間にか本を一冊読み終えていた。内容がうまく捉えきれなかった。ああ、また無意味に本を読んでしまったのだろう。内容の残らぬ読書に価値は無い。要点すら把握できていないのだ。時間の浪費に過ぎなかった。グウと弱い吐き気がこみ上げてくる。何をする気も起きなかった。古いアメリカ映画のポスターが目に入った。成功を夢見てニューヨークに飛び立った主人公があくどい男に騙され、しかしやがてその男と交流を深めるようになり、失敗を重ねながらも必死にニューヨークで共に生き抜いていく様子を描いた映画だったはずだ。しかし、ラストシーンがよく思い出せない。男がフロリダに行きたいと言い出し、二人でバスに乗って、それからどうなるのだっただろうか。ダスティン・ホフマンの顔だけが頭に浮かんだだけだった。
 僕は起き上がった。自分の脳が恐ろしく感じたからだ。あまりに頼りない。以前はそうでもなかったはずだ。いや、もしかしたらずっと昔からこの状態で、ようやくこのひ弱さに気付いただけなのかもしれない。どちらにしろ恐ろしいことだった。僕の脳は弱い。あらゆる人々に劣るのだろう。それは受け入れがたい劣等感だった。この状態をそのまま自己肯定してやることができたら幸福に違いない。しかし、恐ろしかった。それならば保留すべきだ。
「怖いなら、それを受け入れてしまえばいいんだよ」
 由紀の声がする。茶色がかったショートヘアのイメージ。僕は彼女とどこかでこの会話をしたのだろうか。思考が曖昧で、思い出せなかった。
「それでいいんだろうか、由紀」
「いいんだよ」
「本当にそれでいいのか僕にはわからない……」
「大丈夫、大丈夫だよ……」
「由紀……」
 そのまま僕は眠りに落ちてしまう。

 また僕は学校にいた。
 講義の内容はもう頭に入って来なかったし、ノートを取る体力すら無かった。ただ椅子に座っているだけだった。とりあえず、出席だけ。
 知人たちと会話をする。
 自分のアイデンティティを否定されないように、相手を尊重しつつ会話をしている。僕はそれを聞いているが、頭には入ってこない。他人の言葉について思考する余裕はどこにもなかった。
 気分が悪くなってくる。僕は断りを入れて抜け出した。
 もう帰ろう、何をしてもだめだ。一刻も早く帰るのだ。そうすればきっと気分も良くなる。僕は自転車を探した。駐輪場をうろつく黒い影。人食い狼だ。いい加減にしてくれ! どうしてここまで僕を追いかけるんだ。泣きそうになりながら僕は歩いて帰ることにした。
 道中、何度も黒い影を見た気がする。この町は人食い狼で溢れていた。代わりに、人を見かけなくなった。いたのかもしれないが、僕が認識しきれていなかっただけの可能性もある。それほど、この町は人食い狼だらけだった。早く部屋に帰りたい。部屋に帰ってどうするのだ? 本を読むのか? インターネットに没頭するのか? それとも何もせずに寝てしまうのか? 僕が持っている選択肢はせいぜいその三つだ。読書は良い。教養を身に付けられる。しかし、その教養がなんになろうか。教養を得たところで、人食い狼から逃げられるわけではないのだ。インターネットは不毛だ。惰性的に気軽なコミュニケーションを交わし、手軽に承認を交換する。それは麻薬的な中毒性を持っていて、しかも何の意味も無いのだ。つまり、僕には有意義な選択肢が無いのだ。それでも帰らなくてはいけないのだ。
 なんとか部屋にたどり着き、ドアを開ける。人食い狼が部屋を埋め尽くしていた。鼻を床に近づけながらうろつくものや、椅子の上に座り込むもの、ベッドのシーツに潜り込んでいるものもいる。とにかく、部屋一面に人食い狼が、ぎっしりと、僕の命を奪う為に待ちかまえていたのだ。僕は呆然として立ち尽くしていた。人食い狼たちが僕を見据えた。僕が扉を閉めると、いくつもの衝撃がドア越しに伝わった。僕は逃げ出す。なんなんだこれは。どうなっているんだ。アパートから飛び出して、商店街をよろめきながら走る。そこら中に狼がいる、みんな人食い狼だ。
 商店街を抜けると、そこには大通りと、大通りに沿って流れている川に架かった橋がある。僕は橋の目前まで走ってきた。人食い狼の数は少ない。橋を渡ろう、この町から抜け出すんだ。
 橋の前には由紀が待っていた。
「由紀、狼が来てるんだ、逃げよう」
「うん、大丈夫、こっちだよ、おいで」
 由紀は僕の手を握って、川沿いの大通りを走りだした。一緒に走る。身体は鈍重な疲労感でいっぱいだったが、それでも足を動かさなくてはいけなかった。由紀の手のひらだけが僕の支えだった。
 どの道を走ったか、どれだけの時間走ったか、そんな事はもう覚えていなかったし、どうでもいいことだった。気が付けば僕は由紀の部屋にいた。由紀は部屋の鍵を閉めて、チェーンをかけた。僕はベッドに倒れている。身体に力が入らないし、頭もぼんやりしている。視界も定かではない。無様な格好だが、とにかく疲弊していたので身体を動かそうという気すら起こらなかった。由紀は麦茶の入ったコップを持ってベッドに座る。茶色がかったショートヘアが揺れた。
「ねえ、最近どうしちゃったの?」
「前にも言ったじゃないか、狼だ、人食い狼が町にいて、追われてるんだ。さっきなんて、僕の部屋に、何匹も何匹も……」
「人食い狼……」
 由紀は肩越しに僕の顔をじっと見つめた。
「ねえ、それって君の気のせいじゃないの? 人食い狼が町に出るなんて、聞いたことないもの」
 くらくらした。由紀の言葉で頭が痛い。全身の倦怠感がより重みを増す。じゃあ、僕が今まで追い回されてきたのは一体何だったっていうんだ。
「そんなまさか……」
 由紀は僕の隣にゆっくりと身体を倒した。視線は離れない。
「本当だよ。たぶん、全部君の気のせい。人食い狼なんていないし、君はきっと、ただちょっとだけ疲れてただけなんだよ」
 ぎゅっと抱きしめられる。体温が温かい。もう何も考えることが出来なかった。
「僕は……」
「いいんだよ、大丈夫。もう大丈夫だから……」
 由紀の腕に包まれて、涙が滲んだ。そう、彼女の言う通り、僕は疲れていただけなのかもしれなかった。
 人食い狼、それは僕の幻覚だった。不毛で価値のない生活で停滞してしまった脳が見せた幻覚だったのだ。恐らくそれは錯乱に違いない。疲労や不毛さや錯乱など、それらが悪かったのだ。そんな生活にはもううんざりだ。そうだ、ゆっくりと休もう。学校も一週間くらい休んで、体調を整えよう。ついでに部屋を綺麗に片付けたり、栄養のあるご飯を食べたりして……。幸い、一週間程度なら学校を休んだって大した影響はない。うん、そうだな、休むことにしよう。優しい由紀のことだから、その間もきっと僕に付き添ってくれることだろう。
 由紀はもぞもぞと動いて、僕の身体に覆いかぶさるように抱きついた。由紀の身体を、僕の身体の前面で感じる。しかし僕の意識はだんだん朦朧としていく。
 それから、どこかへ旅行に行ってみよう。さすがに由紀を連れて行くわけにはいかないだろうから、一人で、そうだな、海なんかがいい。静かで、落ち着いた場所へ行こう。そうすれば、きっと気も晴れるはずだ。
 由紀の顔がゆっくりと近付いてくる。身体をなすりつけるようにしがみついている。茶色がかったショートヘアは甘い香りがする。由紀の優しさだ。彼女は甘く、優しいのだ。
 唇が触れる。僕はあまりの寒気に彼女を思い切り突き飛ばした。由紀は抵抗できずに、鈍い音を立てながら机の角に側頭部を強打し、ぴくりとも動かなくなってしまった。違う、これは寒気じゃない、もっと得体の知れない感覚だ。僕は怖くなった。優しかったはずの由紀も、彼女の唇も、そしてこのおどろおどろしい感覚も、とにかく恐ろしかった。急速に全身に力が入った。僕は飛び起きて、由紀には目もくれずに部屋から逃げ出した。
 ただひたすらに走った。由紀は追いかけて来なかったし、人食い狼だってもうどこにもいない。それでも走り続けた。人通りのない川沿いの大通りを走り、小さな橋を渡って川を越え、その先に広がる見覚えのない町の中を走り続けた。一歩一歩踏み出す度に僕の思考は軽くなり、視界はまばゆく、呼吸とアスファルトを踏みつける音だけが鮮明に聞こえてくる。人々は訝しげに僕を横目で見たが、そんなのはまったく気にならなかった。全身が生気で満ち満ちていた。
 それにしても、由紀は死んでしまったのだろうか。思い切り頭をぶつけて、動かなくなっていた。それでも、きっと生きているだろうなと、明快になった頭を上下に揺らしながら考えたのだった。
 どれくらい走ったかわからないが、そろそろ限界だな、と感じた頃、ぐらりと前のめりに倒れ伏して、夜行バスのエンジン音と、マイアミの海の音を耳にした。軽快になった頭で、僕は映画のラストシーンを思い出したのだった。僕はダスティン・ホフマンにならなかったのだ!
 由紀! 君は甘美だった。とても甘美だった。僕の疲労も、錯乱も、人食い狼も、何もかもを優しく受け止めてくれるのだ、そういう性質なのだ! けれども、僕だって人間だ。彼女に身を委ね続けているわけにもいかない! それは緩慢な破滅にすぎない。僕が生活に従属してしまわない限り、いずれまた君のような存在が僕にすり寄ってくる時がやってくるに違いない。その時はきっと再び人食い狼の夢を見るだろう。それでも、僕は君を突き飛ばすのだ。十分に接近し、その戯れを堪能した後に、僕は君を突き放すことだろう。