2015/12/02

天使の位置

天使の位置

 僕は醜い男だった、乱痴気騒ぎの中、僕は座敷の畳の上でうずくまって、狂人のような呻き声を上げた。つい先程まで僕と談笑を交わしていた女の子は姿を眩ませていた。まあ、そうだろうと思った。一枚の静謐な天使の羽根を幻視した。すぐさま幻視とわかったのは幸いだった。身体を起こして煙草をつけながら、酒宴の騒ぎを目に入れぬように火種から上る白い煙を目で追った。はやくこの場を抜け出したかったが、輪を乱すわけにもいかず、何本も煙草に火をつけた。餞別気分で参加したはいいが、やはり退屈なものは退屈だった。篠原は言った――俺は頽廃が好きなんだ、と。
「どうしてもそれから逃れられない、心に深く根を張って、引剥がそうものなら僕の全部まで崩れてしまうのさ」
 ちらと煙から彼に視線を移すと、陶酔した微笑を浮かべていた。そうか、と僕は返した。煙のうねりのほうが面白いな、と思った。篠原は続ける。
「世の中は俺に生きろ生きろと言う、生命を手放しで神聖視して、そのくせ毎年二万人のイカしたレコードを叩き出す。ついでに俺はモテない。更に働きたくもない。頽落まっしぐら、それ以外の何があるっていうんだ」
 色々あるだろう、見ろ、煙草の煙はこんなにも面白いぞ。言えるはずもなく、わかるよ、と言わんばかりの笑い声をくつくつと上げた。白煙の精緻な流線は絡まり合いながら空調に流されていく。篠原はグラスのブラックニッカをぐいと煽って、にたにたと笑みを浮かべた。
「――まあ、ともかく、だ。めでたいじゃないか。これは祝賀会だよ。我々アニメ研究会は邪悪なるサークラ女に勝利した。あの、クソったれの、あばずれ女の淫猥な誘惑に屈せず、それどころかますます団結を深め、徹底的に糾弾し、叩き出して、見事に偉大なる勝利を収めた!」
 篠原に呼応して、部長の西田が唐突に立ち上がる。
「そうとも! そもそも、女にアニメの本質が理解出来るわけがなかったのだ! あのビッチは、ただ俺たちモテないオタクを誑かして、肉欲と醜い承認欲求を満たすための道具に仕立てあげようとしていただけだ! そもそも我々アニメ研究会は――」
 場は大いに盛り上がった。歓声が飛び交い、アニメ研究会の面々は互いに自らの勝利を誇らしげに讃え合った。僕はじっと煙を目で追っていた。篠原が俺に顔を寄せる。
「なあ、大宮もどうせこれを機にサークル辞めるんだろ? 俺もさ。さっさとこんな鬱陶しいサークルなんて辞めちまおう。まっぴらごめんだぜ。こんな所以外にだって、いくらでも俺の居場所はあるはずだからな」
 僕は内心を読まれていたのをやや不愉快に思いながらも首肯した。篠原だってついさっき飯田を、例の邪悪なるサークラ女とかいうのを散々バッシングしたくせに、とは当然ながら言えなかった。これが彼なりの処世術なのだ。外面は誰にでも満遍なく良く、その為に内密に人を非難するのを躊躇わない。その語り口調も絶妙で、単なる罵声ではなく聴者の賛同を誘うような軽妙な毒舌だった。
 威勢の良い一本締めで祝賀会はお開きとなった。部長の西田らにカラオケの誘いを受けたが、篠原が手際よく断ってくれた。篠原と僕は帰路についた。僕はバスを待ってる間、鴨川の冷え切った流れを眺めて煙草を吸った。

 メイドを見た。メイドさんだった。気味が悪くなる程に白い肌に、ヘッドドレス、フリルの多いシンプルな白黒のメイド服、黒のレース付オーバーニーソックスが映える。バスを降車したすぐ傍に直立し、表情を変えずにじっと見つめてきた。面食らったが、一度大きく息を吐くと冷静さを再確認できて、僕は気に留めないことにして早足で去った。
 ところで、京都市内にはメイド喫茶は存在しない。正確には、メイド喫茶兼メイドバーや戦国喫茶のようなものはあるが、単にメイド喫茶として営業している店舗は存在しない。有用な人材はみな大阪の、とりわけ日本橋などに流れていってしまうらしい。西田の熱のこもった説だ。だから市内でメイドさんなんて見たくなかった。メイドさんは不吉の象徴だ。
 メイドさんはしばらく僕の後ろを付け回しているようだった。メイドさんの尾行とは拙いものだ。僕は苛々した。部屋に戻ってもまだいた。冷蔵庫の陰からこちらを覗き見ていた。うんざりした。いい加減にしろ、と叫ぶと、ビクリと身体を震わせてから部屋を立ち去っていった。僕は気分が良くなった。ウォッカの瓶を掴んで、胃の底で淀んでいる酔いを焼き払うように、一口、二口と飲んだ。こみ上げてくる嘔吐感を煙に巻こうと思い、煙草を吸った。次第に思考が混乱して、僕は硬いベッドに倒れた。

 幾日か過ぎ、春休みで狂った曜日感覚を部屋で満喫していると西田からの着信があった。応答すると、サークルの例会に顔を出せと言われた。なるほど、今日が木曜日なら例会が行われる日で、既に活動が始まっている時間だった。篠原はいるか、と尋ねると、就活の説明会で断りが入っていると言われた。都合の良い言い訳だと感心した。俺は潔くもうサークルに参加するつもりはないと言った。電話越しに鼻で笑う音がした。僕は携帯をベッドに投げて、小説を書こうと思った。
「あーあ。ハブられちゃいましたね」
 ベッドにちょこんと座っていたメイドさんが僕の携帯を拾いながら言った。
「というか、自ら進んで孤立しちゃったって感じですね」
 僕は何も言わずに煙草をつけた。
「馬鹿馬鹿しいと思いませんか? そうやって居場所を憎んで棄てて、挙句の果てには誰も望んでないのに小説なんか書いて自分の愚行を美化して……」
 僕は当然苛ついていた。
「なんなんです、あなたは。何がしたいんです? ……また無視ですか。別に構わないですけどね。まあ、私はメイドですから、あなたがどうしようがあなたに従うだけなので。いえ、皮肉ってわけじゃないです。ただ、なんというか、ええと、そうですね、忠告というか、耳に留めておくくらいのことはして欲しいというか、その程度のものなので、あまりお気になさらずに」
 そう言ってメイドさんは立ち上がり、キッチンで料理の支度をし始めた。頭が痛い。言われた通り、僕は気にしないようにした。小説は書けそうにもなかったから、録り溜めていたアニメを観た。今期は良いアニメが多いな、と思った。
 同じ部屋にメイドさんがいるというのに耐え切れず、ろくに中身の無い財布をジーパンのポケットに入れて喫茶店へ向かった。コーヒー一杯300円で、客が少なく落ち着いた店内。よく行く店だった。奥の席で篠原が本を読んでいた。サロメだった。悪趣味なものを読んでいるな、と思った。
「やあ、大宮」
 僕は挨拶を返しながら篠原の隣に座り、コーヒーを注文して灰皿を手元に寄せた。サイモン&ガーファンクルのボクサーが流れていた。
「あれからどうだい、俺はもう次のサークルはどこにしようかと見当をつけているところだよ」
 身の軽い奴だな、と思った。次のサークルでも上手く立ち回っていけるだろう。
「次はメディ研か写真研かな。まあ、どちらも無難といったところか」
「写真研って、飯田がいる所じゃなかったっけ」
「ああ、そういえばそうだったかな、そういう気がするなあ」篠原らしくないわざとらしい返事だった。「いやね、実はだね、これは隠しておこうと思っていたのだけれどね、飯田にアニ研を辞めるように催促したのは俺なんだよね。まあなんだ、要するに狙ってるんだよ、しょっちゅう飯田の家に泊まるなどしてね」
「ああ、そっか。そういうことか。なるほど、首尾よくやれたってわけだ」
 篠原は俯いて、自嘲気味に笑った。
「どうも俺のことを軽蔑するような言いぶりだね」
「いやいや、まさか……君は飯田の窮地を救って、ついでに自分の願いを叶える為の地盤を固めたというわけなんだから、素晴らしいじゃないか。良かったと思うよ」
「そうかな。君が本当にそう思ってると良いのだけど……ともかく、飯田は良い女だよ。顔は端正で美しく、顔だって広いから、色々と融通が利いて助かるしね」
「融通って?」
「たまにね、ホラ、違法的なアレがね」
「ああ……」
 僕は特に言及しなかった。沈黙が訪れた。僕は熱いコーヒーを僅かずつ啜り、篠原はサロメに目を落としていた。僕は篠原に怒っていた。西田らと肩を組んだふりをしておきながら飯田には良い顔をして気を引こうとする彼の身の変わり様が癪に障っていた。しかし、それはまだ構わない。僕が勝手に癪に障ったと感じて苛立っていればそれで済むのだ。飯田に言い寄るくせに西田たちの前ではあばずれ女呼ばわりするのだって、飯田に同情を寄せることはあっても、それ以上のものはない。けれども、何より、そうした狡猾さの同士に僕を選ぼうとしたのが許せなかった。西田たちはまだいい。彼らの行為には眉をひそめざるを得ないが、それでも誰も裏切ってなどいない。飯田だって本当に西田たちを誘惑したかどうかの真偽はともかく、僕には関わりのないことだ。しかし、篠原、どうして君は僕に腹の中を明かそうとするのだ。僕は誰にだって怒りなんて覚えたくはない……僕も西田たちと同様に賢く見捨ててくれればそれでよかったというのに……。
「大宮、君のほうはどうだ」
「僕は、何もないよ。ずっと部屋にこもってる。たまに食糧を買いに外出するくらいだ。おかげで気が狂ってしまったのかもしれないけど、よくメイドさんを幻視する」
「ワハハ、なんだそれは。可笑しいな」
「な、マジでビビるんだよな、視界の隅にメイドさんがいるって中々凄い光景だぜ」
「それでそのメイドさんに人生救ってもらうとか? 三文ラノベだなあ」
「最高に幸せそうだけどね」
「確かに」
「でもさ、そのメイドさん、僕に文句を言ってくるんだ」
「生活がだらしない、とかか?」
「いや、それが僕がサークルを辞めて独りぼっちになってるのに文句を言ってくるんだ。お前は何がしたいんだーって。幻覚にそんなこと言われるんだから嫌になってしまうよ」
「それはキツいな。精神疾患かなんかじゃないのか」
「まったくだよ、人生を救うとかそういう浮ついたものですらないぜ……」
 篠原は急に僕の顔をじっと見た。
「お前、でも本当はそういうのを望んでたんじゃないのか?」
「そういうのって、だらしのない自分を叱責してくれる立派な女性ってことか? まさか、勘弁してくれよ、そんな惰弱な願望なんて持ってないさ、そう信じたいね」
「誰だってそう信じたいとも」
「僕が僕を責め立てられたいと望んでいるだと、あれほど望んでこうなったというのに? 容易には受け入れがたい洞察だよ。まったく受け入れがたいね」
「まあそう気を荒立てないでくれ、悪気があったわけじゃないんだ。単なる俺の思い付きに過ぎないんだ、気を悪くしたのなら謝るよ」
「いや、篠原が悪いってわけじゃない、ただ、自分にぞっとするような恐ろしさを覚えただけだよ、こちらこそすまんね」
 再び沈黙が訪れた。僕は三本目の煙草に火をつけることしか出来なかった。おぞましい、なんとおぞましいことであろうか、僕がそのような人間だったと暴かれることがこれほどまでに恐怖だったとは、それが例え真実でなかろうとも十分に恐ろしく、もし真実であろうものなら気が狂ってしまいそうだった。煙を吸い尽くす他に手立てがなかった。
 煙草を吸い切ってコーヒーを飲み干し、篠原に別れを告げて店を出た。メイドさんが立っていた。僕は恐ろしさを通り越して激しい怒りを覚え、自転車を持ち上げて叩きつけるように投げた。
「きゃっ」
 けたたましい音を鳴らして自転車はアスファルトにぶつかり、からからと車輪は空転した。メイドさんは呆然と僕の顔を見つめていた。メイドさんの無邪気さゆえの呆然とした表情に耐えられず、スッと熱が冷めて、早足で帰宅した。メイドさんはそれでも健気にも僕の後ろをなぞるように歩いていた。
 椅子に座り込んで、ウォッカを煽った。メイドさんは布のクッションを床に置いて、ちょこんと上に座り込んだ。
「どうしてあんなことをしたんです? 私が気に食わなかったんですか?」「外で話聞いてました。私の発言が不快だったのでしたら謝ります。お願いですから、あのような乱暴なこと」「私がどうしても嫌いだと言うのでしたら、私、ここを出て行きます。そうでなければ、私はぜひともここに居たいと思ってるんです。心からお慕いしているんです」「でも、それでも私はあなたが間違えてるって思ってます。あなたは悪い人じゃない、それどころかとても良い人格者だと思ってます。でも、そうした人も過ちを犯すことだってあるんです。そういう時って、ちゃんと過ちを過ちとして扱うべきだと思うんです、私はそういう意図であなたに言ったんです、あなたを攻撃する為じゃなくて――」
 メイドさんが発言する度に自分の精神が徐々に支配欲へと歪んでいった。従属させること、僕を正そうとした人間をすっかり僕のものにしてしまおうとすること、その蠱惑的な悦楽に僕の心はすっかり浸りきってしまっていた。そして、それが何よりも僕に吐き気を催させた。
 僕は必死に、がむしゃらに欲を押さえつけながら、声を絞り出した。
「――頼む、頼むから、二度と僕の前に姿を見せないではくれないか……」
 その音は呻き声と区別がつかないほどぐしゃぐしゃで、メイドさんの普段の凛とした顔はぐにゃりと歪んでいった。あ……あ……と幾度か声にもならない声を漏らした後、メイドさんはとぼとぼと部屋を去っていった。ドアを開ける間際、メイドさんは普段の整った表情を取り繕いながら、簡潔で硬固な別れの言葉を述べた。僕は何も返せなかった。

 メイドさんがいなくなった後の生活は悲惨なものだった。悲劇的と呼んでもいい。全くの孤独というのがこれほどまでに痛ましいものだとは思ってもいなかった。僕はずっと呻き散らしていた。ずっと厄介に思っていた大学が恋しくなり、はやく春休みが終わってくれることを切望し続けた。睡眠と覚醒の境が段々と区別出来なくなり、淀みきった精神だけがぐるぐると泥濘のようにうごめいていた。外部からの明確な知覚、すなわち他者が欠落するだけで僕の一切はすっかり腐り落ちてしまっていた。メイド、単なる心慰みの愚かしい妄想であっても、それを棄て去るだけでかくも見事に支えを失ってしまうのかと思うと、自身の情けなさに吐き気を覚えた。なんと弱々しい精神だと自分を嘲笑う度になおのこと腐敗は活き活きと進んだ。
 曜日感覚どころか時間感覚すらも喪失してしまった間、僕はふと夢を見た。
 透き通る夢だった。太陽を遮ることない透明な大地に、無秩序な言葉たちと、静謐な天使の羽根たちが積層している。天使たちは横たわる――無邪気に、動くことなく、彼女らの本当の世界で柔らかな永遠を満喫している。
 ――ああ、俺は君を見たことがある! 君も、君もだ! みなよく知った顔だ! よく覚えているとも、忘れられるはずがないだろう! 君らのその名にそそいだ輝かしい愛を、すっかり鈍麻し病み切ってしまった魂が浴びたあの救済を、いったい誰が忘れようか! 救済、それは間違いなく驕り高ぶった錯覚だった。溺死体のような心に残った醜き所有欲が求めたまったく空疎な倒錯だった――然し、然しだ! 心は紛れも無く、あの時、救われたように感じたのだ! 得ることで得られた救済でなく、仰ぎ見ることで得られた心の安らかなる救済! 仰ぎ見られるものがもたらす心の深くから煌々と湧き出るこの熱情を、ああ、俺はずいぶん長い間感じていなかったようだ。
 俺は孤独を感じながら、それでも身体の隅々が満ち満ちてゆくような感覚を魂に湛えた。世界には静かに澄み切った煌きがたゆたっている。天使たちが脱皮をするように、熱のある翼を遥か高くに掲げるように、若き精神の力強い宣言のように、二つに分かれてゆく、いや、天使そのものは少しも動かず、ただ俺が降下してゆくだけであった。俺は再び天使を仰ぎ見る、卑近な者としてでなく、処方箋としてでなく、彼女らが天使そのものであるように! ――昇れ、昇りたまえ、君よ、君自身の為に!
 さあ、与え得る唯一のもの、このまったく汚れなき純然たる祈りを、この引きずり降ろされた天使たちに捧げようではないか、祝おうではないか! 彼女らが再び天を舞い、不浄なる大地と一切関すること無く、彼女らの身と天空に満ちた黄金を戯れられるように! 天使たちよ、果てなく尊ばれよ!

   *

 目を覚ますと、朝であった。すべてが調和しているように思えた。紅茶を淹れて飲み、煙草の煙を大きく吸い込んだ。胸の奥が気持ち良くなって、頭の中がすっきりとした。凍えるような外気が僕の身体の輪郭を定めて言った。僕は一人で微笑み、沈黙の音を愉しんだ。天使の羽ばたきの鱗粉を感じていた。誰かと話をしたいな、と思った。けれど、今すぐできなかろうとも構わないな、とも思った。
 喫茶店に行くと、やはり篠原がいた。やあ、と僕は挨拶をした。
「元気だったんだね、大宮。何度かメールをしたけど返事もなくて心配してたよ」
「元気ではなかったけどね。まあ、今は快調だよ」店主にコーヒーを頼んで、灰皿を寄せた。「ところでさ、僕は君みたく次のサークルを探すのはやめたよ」
「本当かい、まあサークルでなくとも居場所なんざいくらでもあるからな。飯田みたいにさ」
 僕は上辺だけは同意するかのようにくつくつと笑った。
「飯田、飯田ねえ。そりゃあ恋愛ってのはきっと素晴らしいものなんだろうね、それは間違いないんだろう。でもな、篠原。お前みたいに狡賢く立ちまわって、女を自分のものにする為に人間を裏切り、自分の欲望のために女を作るなんて、僕はそんなげすなことをするくらいなら女なんて欲しいとも思わんね。もっとも、もっと他の恋愛という形もあるだろうけど――ともかく、僕は篠原みたいなことだけは決してしたくないと思ってるんだよ、本当のところはね。あけすけに僕の考えを言ってしまうのならそうなるよ。ああ、僕はいま、君との今までの会話の中でずっとずっとすっきりとした気持ちで話をできているよ。いやね、僕は決して女ってやつの価値を低く見積もろうというわけじゃないんだ。ただただ君のようなことだけはしたくないと思ってるんだ。自分の為だけに女を、いや人間を取り扱おうなんていかにもクズのやり口じゃないか。挙句の果てに居場所なんて言葉を持ち出して自分の行為を正当化する。反吐が出ちまうよ。そんな醜行を理論武装で整えたって、よっぽどのめくらでもない限り誰だって君なんか門前払いに決まってるだろう――」僕は一旦言葉を区切った。篠原はぎょっと目を見開いてこちらを見ていた。決して構うものか――「なあ、篠原。君は僕を軽蔑するかい? 君が僕を軽蔑するというのなら、僕も快く君を軽蔑できるよ」
「俺は」篠原は考えを整えるように間を置いた。「俺は、お前が俺にそんなことを思っていただなんて考えもしなかったよ。気の置ける良い友人の一人だと思ってた。俺は君にすっかり裏切られたように感じている。けれども君はこう言うのだろうな、勝ち誇ったような顔をして。もともと信頼なんてなかった、と。俺は君を信頼していたってのにな。お前にとって信頼を見捨てるのはそんなにも軽々しくやってのけられることなのかい、なあ、大宮」
「信頼しようと思っていたよ、ずっとずっと願ってたんだ。でもさ、無理だったんだよ。お前みたいな奴をさ、信頼できるわけないだろう。居場所を求めるという獣欲に身を委ねて、ところ構わず狡猾に人間を食い荒らして、骨だけが残ったら次の獲物へと飛び掛かる。人間とヒグマの間に倫理が成り立たないのと同じだ。篠原、君は飢えた獣を目の前にして、俺はお前を信頼しようだなんて高らかに叫べるか? できっこないのさ、だから僕は君を信頼するのをやめたのさ」
 篠原は僕を蔑んで強く睨んだ。僕と篠原の縁もこれで終わりで、とうとう話す相手もいなくなるだろうな、と思った。
「なあ、大宮。最後に一つだけ教えてくれんか。俺はこれ以上君を糾弾したくはないからね。ついでに二度と俺に声をかけないで欲しい」「それで――結局、居場所は見つかったか?」
 なんだ、そんな簡単な質問か。なあ篠原、身構えていた僕が馬鹿みたいだぜ。君らしくもない。拍子抜けしてしまったよ。君ならもっと手際よく僕を追い詰めて叩き潰すだろうと思っていたのに。
 僕は悠々と笑って、答えた。
「ないぜ、なかったんだぜ、居場所。全部切り捨てちまったわけだしな。笑えるだろう、蔑まれても仕方がないことだろうよ、でもな、そうだとしてもな! 見ろよ、見てみろよ、僕を! どうだ、確かに在るだろう、それは僕も、君だって認めるだろうよ、僕のこの身体を!」
「大宮! そうやって観念上で物事を解決しようたってそうはいかないぜ! お前が納得したところで、お前の居場所はどこにもないんだ、ただお前がそこに生きてる、それだけのことだ! 居場所を作ろうと腐心する事を怠っただけだろうが! そんなもん、正当化したってどうにもならんぜ!」
「違う、違うぜ、篠原。僕は何も生涯ひとりきりで満足しようっていうわけじゃない。別に居場所が無い時期があったって大した問題じゃない。君は居場所を食わないときっと餓死してしまうだろうけどね!  いいか、今から普通のことを言うぜ。焦るのはみっともないんだ。病的になってしまうと、もう目も当てられない。まるで、次々と人を食い物にしていくように見える。僕は単にそういうことをしたくないってだけだ、ただそれだけなんだぜ、篠原!」
「それでも、お前は孤独であり続けるだけだぞ!」
「構うものかよ!」
 僕はすっかり得意気になっていた。篠原はじっとテーブルを見つめて黙った。僕は勝利を確信した。誇らしい気持ちになった。自分だけが何よりも確かなように思えた。店を出ると予想通りにメイドさんは見えなかった。自分の身体を確かめるように、両腕を大きく広げたり、飛び跳ねたりしながら町中を走り回った。気が良くなって、コンビニでビールを買って、人通りの無い通りのマンホールの上に座り込んで、煙草を吸いながら飲んだ。祝杯をあげるような気分だったが、それ以上に煙の形状が愉快でたまらなく、大声をあげて笑った。煙草の火種がジーンズに落ちて、すぐに消えた。次第に嗚咽が漏れて、呻き声をあげながら、僕はひどく惨めな人間だと思い、路上でうずくまった。

(2014/03月執筆、『しあわせはっぴーにゃんこ』所収、同年05月05日東京文学フリーマーケット頒布)