2016/05/08

ロータリィ・フラワー

ロータリィ・フラワー

 駅前のロータリーに無数の白いタクシーが停まっている。時折、黒やシルバーの軽自動車が人々を降ろしたり乗せたりして、ロータリーをぐるりと回ってどこかへと消えて行く。車と、その運動と、その停車がロータリーという空間を成立させているのだと思った。循環と停滞……その総体。
 ツツジの植え込みがロータリーの車道と歩道を分けるように植わっていた。開花の盛りは過ぎているようで、鮮やかであったろう独特の赤みは斑点となり、みすぼらしい薄桃色の上にぽつぽつと姿を残すだけであった。その様子とこの町を照らし合わせて衰退に思いを馳せることはしなかったが、それでも拭い切れない寂寥感が胸に残った。
 高水あさひはバス停留所のベンチに腰を掛けて、セブンスターに火をつけた。
「バス停周辺は禁煙だよ」
「誰も気にしないさ」
 彼女は満足気に煙を深く吐き出して、薄い雲に遮られた空を見やった。陽光は散漫に町を明らませている。きっとこの町はいつまでも薄明るいのだろう。何よりも明るくなく、何よりも暗くない、そういう町なのだ。
「煙草、美味しい?」
「最高だね……」
「それはよかった」
 あさひは不意にツツジを指さした。
「あの枯れ際のツツジが、何か意味を示していると思う?」
「植物が自ら意味を示すことはないんじゃないかな」
 断定はせず、若者らしい懐疑的な姿勢をほのめかすように答える。
「……例えばね、もしも峰くんが、これは何も意味していない事を意味しているのだ、と伝えたい時はね、決してそれを口に出してはいけないよ。何も言わず、何事もないかのように、退屈そうに宙に視線をやったり、煙草を吸ったりするといい。私みたいにね。あのツツジだってそうだよ。すました顔で、自然に枯れていってる。そういうところが可愛いやつなんだよ、ツツジってのは」
「じゃあ、あのツツジは何か企みをこさえているって?」
「さあ、それはどうだろうね」
 あさひはくつくつと笑い、宙に視線をやって、煙を吐き出した。彼女は肝心なところを煙に巻くのが好きなのだ。僕もあさひに倣って退屈そうに宙を見やる。数台の車がロータリーを廻り、またどこかへと走っていった。
 あさひはフィルターが熱くなるまで吸い切って、ペットボトルに入れた。僅かに残った緑茶が吸殻に滲み込み、小気味いい音を立てて鎮火した。表情には出さないが、あさひは喜んでいるように思えた。これほどの喜びを彼女に与えるものは、恐らく煙草の他にはないだろう。煙の似合う少女だった。彼女はペットボトルを何度も振って、ペットボトルの側面にべたりと引っ付いてはまた反対側に飛んで引っ付くぶよぶよの吸殻を凝視していた。退屈ゆえの弄びではなく、彼女は心底楽しげに時間を潰していた。僕はふいに携帯で写真を撮った。彼女は少しも気に留めずにペットボトルを振った。
「ちょっと早いけど、どこかでご飯でも食べようか」
「そうだね」
「何か食べたいものは?」
「うーん、餃子」
 僕らは立ち上がって、人通りの無い大通りに出た。白と赤の看板が光っていた。餃子の王将だ。あさひはここでいいと言うふうに頷いた。贅沢できる程の手持ちではなかったから、少し安堵した。ひどくぬめった灰色の床の粗野な踏み心地に僕らは満足を覚えた。店内に客の姿は無かった。カウンターの席に並んで座ると、あさひは愉快げにメニューを見た。餃子を三つと炒飯を二つ注文した。あさひは真っ先に運ばれてきた中華スープをれんげで啜り、極上のワインを舌で転がすように味わった。
「味覚って、素敵だね」
 僕は微笑を浮かべた。
「喜んでくれたのなら何より」
「人間には五感ってものが備わってるじゃん?」
「あるね」
「それを歓ばせるのは理性に与えられた義務だと思わない?」
「義務ってほど厳格なものかな」
「少なくとも、無碍にするのは生命に対する不義だよ」
「なるほどね」
 次に、艶やかな半球の形に盛りつけられた炒飯が運ばれてくる。
「モスクの天頂みたい……」
「これから君はその美しいモスクを破壊し、食物として口の中に放り込むわけだ」
「そのために作られたものだからね。制作物に与えられた意図を汲み取り、それを遂行する事は極めて重要だよ。理性の為せる神聖な儀式だよ」
「なるほどね」
 あさひは何かの神聖な儀式のように、神妙な動作で炒飯を一口ひとくち丁寧に口に入れた。僕はすっかり見惚れてしまっていた。彼女のほっそりとした白い指が、餃子の王将の安っぽいれんげをしっかりと掴み、少しの危なげもなく、厳かに、それでいて踊るように、口へと運んでゆく。喜びで微かに紅潮した頬をもぐもぐと動かして、新鮮な驚きと生命であることの神秘的な恩恵を丁寧に吟味するように咀嚼している……ガラス扉を透いて、赤みを帯びた金色の斜光が炒飯の欠けた丘陵を輝かせていた……これを注視している世界じゅうでただひとりの人間は僕なのだ。彼女が僕の顔を見て微笑みかけるということはない……それでいい、それでいいのだ……。中華スープの器は空っぽだった。空っぽの器は僕を悲しくさせる。おかしなことだった。どうして空っぽの器が僕を悲しくさせるのだろう? この器だって、すました顔で、何事もないかのように、退屈そうに宙に視線をやっているじゃないか……。
「峰くん」と彼女は言った。「変な顔してるね」
「ああ……」
「きっとそれは何かを意味しているからだ」
「ああ……きっとそうだろう……そうに違いない」
 餃子の皿が置かれた。三人前が一つの皿に載せられている。あさひはそそくさと割り箸を手に取り、丁寧に割って餃子をつまんだ。一方で、僕の割り箸は不格好に割れたということはなく、あさひと同じように綺麗に割れた。随分と遅れてしまっていることに気がついた。急くように炒飯を口に放り込み、中華スープを流し込んだ。餃子だけは時間をかけて食べた。沈み際の金色の光はたとえようもなく美しかった。極端に人影の少ないこの町にも、美しい金色の光は訪れるのだ。黄金色の残照よ……。
 勘定を済ませると、街灯がぽつりぽつりと人通りの無い路地に明かりを降らせていた。駅前ロータリーに戻る途中でコンビニに入って缶ビールとスルメを買い、タクシーにもたれかかりつつ煙草と缶コーヒーで安息を得ている運転手たちを横目に、ロータリーから西へと続く路地を一分ほど歩く。地上から上階に向けて薄くなっていく茶色のグラデーションのビル。縦長い箱のように簡略化されたフォルムに、数多の真四角の窓が所狭しと配置されている。僕は四方を囲む白地の看板に青の東横インの文字をみとめた。清潔なロビーでチェックインを済ませている間、あさひは物珍しそうにあちこちを見回していた。
「峰くん、カレーサービスがあるんだって。六時から八時まで」
「うーん、夕食は済ませちゃったからなあ」
 しかしここのカレーはさぞ美味しいだろうと考えた。ライスは丸く丁寧に盛り付けられ、ルウはまろやかな味で、じゃがいもはきっと柔らかく、見事な紅色の福神漬もついているだろう。あさひは餃子が食べたいと言ったが、もしかしたらカレーのほうが食べたかったのかもしれない。カレーで腹を膨らせて、部屋に戻って缶ビールを飲むのは素晴らしいことだろう……餃子とカレーを比較することほど馬鹿げた考えもない、どちらも素晴らしいであろうことなど考えるまでもないのだ。
 あさひはベッドに飛び込み、柔らかくも硬くもない快適なベッドと清潔なシーツの感触を楽しんだ。ダブルベッドだったので、あさひの細身なら三人はゆうに横たわれるだろうと思った。僕は荷物をテーブルの足に立てかけ、椅子に腰掛けて、缶ビールのプルタブを引いてあさひに渡した。
「いいのかなあ、飲んじゃって」
「いいさ、どうせ誰も見てない」
「乾杯しようよ」
「何に?」
「うーん、万物に」
 缶をそっとぶつけ合って、アルコールを摂取する。
「それにしても、お酒で酔えるってのは幸せなことだよ。アルコールを摂取するだけで心地の良い酩酊を得られるように創られている人体に感謝しなくちゃ。人類、最高」
 あさひはビールを飲みながら、饒舌にいろいろな話をしてくれた。彼女は人類が生命を有し、また文明を持っていることに尊い歓びを感じていた。時折、神さまに祈るようなこともした。神の存在を信じているのかと尋ねると、へらへらと笑いながら祈りの尊さを説いてくれた。僕も祈らなくてはいけないと思い、あさひに倣って祈りを捧げた。酔いが回り、何に向かって祈りを捧げたのかはよくわからなかった。ともかく、人通りの無いこの町の駅前にある東横インの一室で、僕とあさひは祈った。あさひの祈りの句を必死に聞き取ろうとしたが、うまく頭が動かなかった。それでも祈ることはできた。祈らなくてはいけない。ともかく、祈らなくてはいけないのだ……。祈りは生命と理性のある者にのみ可能な行為なのだ、なんと素晴らしいことなのだろう。祈りの歓びは人間らしい歓びを生む、それなのに僕は今まで敬虔に祈ることをしなかった。祈ることなく、不幸な生活をしてきたのだ……祈りも、ビールも、餃子さえも、僕に生きることの素晴らしかったことを思い出させてくれた。人間らしい幸福……。
 狂おしいほどの静寂が一室に蔓延していた。どうやら眠りに落ちていたようだった。ベッドから身を起こす。あさひはデスクに突っ伏して眠っていた。僕はあさひのかわいらしい寝姿を写真に撮った。あさひは安らかな寝息を立て、静かに肩を揺らしていた。あさひはデスクで何をしていたのか。あらかたの予想はついていたものの、それでも好奇心に駆られて覗き込む。一枚の紙。僕はそれを手に取り、ベッドに座り込んで読んだ。遺書であった。読み終え、僕はあさひをベッドに寝かせ、自分もその横に伏した。
 僕は悲しかった。率直に言うのなら、やりきれない気持ちでいっぱいだった。あさひは死ぬ算段なのだ。とうに知っていたことだが、どうして遺書のひとつでこれほどまでに現実味を帯びるのか。単なる紙と、インクの滲みではないか。いいや、違うのだ。これには決然たる意味があるのだ。文字はツツジと異なり、自ら意味を表明しているのだ。そしてそれを書いた者の意図も……。文字は宙に視線をやって退屈げに煙草を呑みはしない……。遺書には意味が充満しているのだ、むせ返るほどの意味が……あさひ……。生命を称揚する君ですら自ら死のうと言う、だというのにどうして僕のような者が生きていられようか……。いっそ心中や後追いをしてしまうべきではないか……。きっとあさひは僕を軽蔑するだろうが……。……。



 ホテルの朝食サービスを食べるあさひは、依然として喜ばしげであった。音を立てず丁重に味噌汁をすすり、黒ごまのおにぎりをかじり、玉子焼きとほうれん草のお浸しを危うげなく口へと運んだ。食後のコーヒーにはミルクをたくさん入れていた。
「コーヒーなんて、久々に飲んだよ」
「ミルク、入れ過ぎじゃない?」
「これくらいでちょうどいいんだよ」
 部屋に戻り、出立の用意をした。あさひはベッドに腰掛けて煙草を吸い、少ない荷物をまとめる僕を楽しげに眺めていた。
「海を見に行こうよ」
「うん、きっと良いものに違いない」
 海は近かった。ホテルをチェックアウトし、横断歩道を一つ渡って路地を真っ直ぐ歩くと眼前に海が広がった。寂れたフェリー乗り場だったが、それでも僕らの前には夢の様に美しい海が広がっていた。砂浜もなく、ただコンクリートの防波堤が陸と海洋を分断しているばかりであった。テトラポットすら見当たらない。無感動で陰鬱で簡素な海辺がこの上なく美しく見えた。右手には小高い山が薄く見え、左手には真っ白な煙突が膨大な煙を吐き上げているのが見えた。あさひは防波堤に腰を下ろし、煙草に火をつけ、足をぶらぶらと揺らした。僕は写真を撮った。この上なく尊い写真になるだろうと思った。あさひは振り向き、僕に向かってやさしげな笑みを浮かべて、指を二本立ててピースマークを見せた。僕は逃すまいともう一枚写真を撮った。波音とも言えないようなささやかな音だけを僕とあさひは感じていた。薄雲に遮られた日差しはほんの少しだけ水面を照らし、砕け散ることもなくいつの間にか消えてゆき、絶え間なく降り注がれてくる新たな日差しが再び水面に反射する。そういった反復をただただ目で追った。あさひはぼうっと宙に視線を向け、煙草を吸い、やがて海へと消えていった。
 海へと消えていったというのは散文的な描写にすぎない。事実、あさひは縄で両足をぴたりと縛り付け、口を使って器用に腕まで縛り、それから縛り上げた手で煙草を口元に運んで肺いっぱいに吸い込んで海に投げ捨て、身をよじらせて飛び込んでいったのだった。彼女に相応しくない動きではあったが、それでも彼女は誰の手も借りずに一人で溺死を成し遂げた。彼女は波に揺られながら沈み、しばらくして幾つかの気泡が水面で弾けた。それがあさひの最後の呼気だった。かわいらしく、やさしい気泡。僕はあさひともっと何時間でも一緒にいたかったから、何をするでもなく堅い防波堤に座り続けた。この海が長崎の輝かしい海だったらどれだけ素晴らしかったことだろうと考えた。長崎の海は光に満ちているのだ、天使たちは長い坂の上を舞い、海を燦燦と照らす。天高く、天高く……。しかしここは長崎ではないのだ。日本海ですらない。長崎にあさひはいないし、あさひはこの町の海に沈んでいったのだ……あさひは長崎の海で沈んでゆきたかったのではなかったのだろうか、彼女に訊こうにも、もはや容易な問答すら適わないのだ……。いつまでここに居たいと思った。永遠に、果てしなく彼女と共に居続けられたのなら、それはなんと素晴らしいことだろう。きっとそのまま根が生えて、意識は消え、根はコンクリートを貫いて深く深く張り巡り、彼女の肉体を包み込むのだ……あらゆる悪意、欺瞞、無関心、疫病、悪夢、呪詛、寂寥、恐怖から彼女を優しく保護する……。再開発が行われるまで共に居続けられるのだ、悪意ある役人共が僕らを分かつまで……。
 僕は荷物を抱えてフェリー乗り場を後にした。駅前ロータリーにあるバス停のベンチに腰掛けた。バス停の塗装は剥げかかっていたし、あちこちが錆び付いていた。ロータリーにタクシーは無かった。送迎の車も見えず、そこには僕と枯れかけのツツジだけしか存在しなかった。ロータリーは、車と、車の運動と、車の静止によって成立していると思っていた。車の無いロータリーだってあり得るのだと、僕の馬鹿げた観念とは相反する事実だってあり得るのだと僕は初めて知った。それはあさひの教えてくれなかった事だった。彼女はこの事を知っていたのだろうか。彼女の哲学と相容れない事実を、彼女は受け入れられるのだろうか……いや、彼女の回答など容易に想像がつく……生命であることを誰よりも受け入れていた彼女ならきっとこう言うだろう……軽い微笑を浮かべつつ……。……。しかし、彼女はすべての可能態の連関から断絶されてしまったのだ……彼女はもはや世界の如何なる幸福にも関わることができない、ああ、彼女が生きてさえいれば……生きてさえいれば、何だって出来たのだ……真っ白なテラスから夢の様に美しい海を眺めることも、清らかな湖畔を臨む赤い尖塔の教会で祈りを捧げることも、屋根裏部屋で柔らかなワルツを踊ることも、入道雲の聳える田園の畔道を歩くことさえ……僕たちは何だって出来たはずなのだ……可能態、それは素晴らしい。それゆえに人生は素晴らしい、理屈からいって人生はまったく素晴らしいのだ……。
 僕は人気の無い真昼のロータリーですすり泣いた。はやく、はやくロータリーが動き出して欲しかった、あれほど無価値に思えていたタクシーや軽自動車が恋しかった、小癪なエンジン音が聞きたかった。ツツジの花が枯れつつあった。その花の枯れ様は、世界のすべてに対して素知らぬ顔をしているふうな赤みを帯び、それでもなお毅然としていた。僕は生きていることが疎ましく覚え、自死を考えたが、次第に億劫になり、ベンチから立ち上がってズボンをはたき、荷物を抱えて新幹線の自由席券を購入し、故郷へ戻ることにした。駅のホームでは数枚のあさひの写真を何度も見返した。どれも素晴らしい写真だと思った。当然のことだ、なぜなら彼女は素晴らしい写真になるように生きていたのだから……。
新幹線は遅れず、定刻通りに人々を運んだ。



 こうして実際に遺書をしたためてみると、中々戸惑うものです。あれほど多くの事を書き遺しておきたいと常日頃から思っていたのに、いざとなると不思議と最適な言葉が浮かばないのです。もっと冷涼な心持ちで白紙に向かえるものかと思っていました。これは戸惑いの一種なのか、何らかへの執着なのか、診断に参ってしまいます。
 峰くんにはとても感謝をしています。感謝の念を伝える言葉ではちっとも足りないほどです。言葉とは肝心な時に役に立たないものですね。峰くんが私に与えてくれた最上のものは、無理のない、自然な交わりでした。そういったものが欲しかったのです。ずっと願っていました。時々、あまりにも寂しくて、それ以上のものを求めたがってしまうこともあったけれど、私が真に求めていたものはやはりそれしかなかったのです。皆、私にたどたどしく接するものですから(もちろん、たどたどしく接してしまう理由くらい分かっていますし、やむを得ないことだと理解もしていました)、峰くんは私の心に長らく欠如していた精神的な栄養を与えてくれました。それが全き共感であるとは思っていません。完璧な共感なんてありえませんから。けれど、互いに共感したふりをすることは出来ます。私にはそんなハリボテすら縁がなかったので、本当に嬉しかったのです。
 たった一日でしたが、峰くんが見せてくれた外の世界はとても魅力的でした。『テンペスト』の一節が頭をよぎる程でした。この島はいつも音で満ちている、だから怖がることはない、と。以前はあれほど毛嫌いしていた猥雑な喧騒も、騒々しい喚き声も、今ではとても愛おしく感じられます。私たちが耳を傾けるような音楽など、比べようもなく素晴らしいものです。人間が多く生きているということは、とても素晴らしいことです。これまで目を背けていた自分が情けなく思え、赤面してしまいそうなほどです。峰くんはどうかこの世界を嫌ってしまわぬよう、私は祈っています。
 自らの手で自らの命の始末をつけられるというのは喜ばしいことです。これほど誇らしいことはありません。高原の家屋に居たままでは、私は惨めたらしく衰弱を待ちながら自然死するだけだったでしょう。高原の家屋は素晴らしいところでした。陽光は静謐で、空気は清涼としていて、穏やかで美しい時間が流れていました。けれども同時に激しい寂寥を覚えざるを得ないものでもありました。私はそこで様々な書物を読んで過ごしましたが、書物は同じ文字しか表さず、生命の麗しい多様性をちっとも教えてくれませんでした。生命であることのありとあらゆる歓びを心行くまで享受せずして、何が人の生でしょうか。静謐な陽光と冷涼な空気に囲まれるだけでなく、この町のような世界を知ることも大きな歓びとなりうるのです。猥雑であれ、閑散であれ、絢爛であれ、一切は歓喜に値するのです。
 この後、峰くんはどうするのでしょうか。再び故郷へと帰り、万事これまで通りの生活へと戻ってゆくのでしょうか。私はそれが最良だと思います。憂鬱だろうが、退屈だろうが、それは愛着を覚えるのに十分なものです。憂鬱な心地すら、私たちは愛おしく思うことが出来るのです。それが私たちに与えられている能力のうちで玉座に据えるに値するものなのです。ですから、親愛なる峰くん。世界への愛着を、どうか忘れぬよう。
20XX年6月12日
高水あさひ

(2014年7月執筆、『ただいまサナトリウム』所収、同年9月14日第二回大阪文学フリーマーケット頒布)