2012/10/15

遠い夜明け

『遠い夜明け』 
 包み隠さずに心を打ち明けられる相手が親友だというのなら、親友と呼べる相手は日記帳だけだった。
  就寝前に一日の出来事を思い出して、日記帳に書き留めるのが習慣だった。
  棚からろうそくの入った緑色の箱とマッチ箱を持ち出し、ろうそくとマッチを取り出す。ろうそくを燭台のピンに差し、部屋の照明を消してろうそくに火を灯す。簡素な短く細いろうそくだ。橙色の仄かな微光が部屋をぼんやりと照らした。明々とした光はあまり好きではない。ろうそくのおぼろげな明かりのほうが好きだった。
  日記帳を取り出し開く。椅子にもたれ掛かるようにして目を瞑る。まぶたを通して、わずかにろうそくの灯りが感じられた。
  さて、今日は一体どんな一日だっただろうか。想起する。

  まず、朝食を食べた。朝食はどうも無味な気がしてならない。むろん味はあるのだけれど、どこか他人行儀な味がする。食事というよりはただ物を胃中に収納するだけの単調な作業に思えてならない。食事中に吐き気を堪えることもよくある。しかし母親の作った料理を吐き出すなんてことは出来ないので必死に堪える。僕は朝食が嫌いだった。
  次に学校へ向かった。道中は覚えていない。なんだかよく分からない曲を聴きながら、無意識のうちに電車に乗って、ふらふらと生気のない足取りで学校へ向かった。ただ、鬱々とした深く暗澹たる鈍色の雨雲が立ち込めていた。校門を抜けると、灰色のコンクリートの校舎が無表情で僕を見下していた。まるで、刑務所のようだと思った。それ以上の感情は湧かなかった。
  肩身の狭い思いをしながら授業を過ごした。教師の視線を、ただ机上を注視することで耐え忍んだ。とにかく怖かった。教師の視線も同級生の視線も後輩の視線も警備員の視線も、ありとあらゆる人間の視線がただただ恐ろしかった。僕は岩になりたいと思った。ずっとそう思っていた。古い曲の歌詞にそうあったのを覚えている。岩は痛みを感じないのだ。
  学校が楽しいと思ったことは無かった。いや、もしかしたら以前にそう感じていたのかもしれないが、今は到底そうは思えなかった。身体に全方位からおぞましい圧力が掛かっているような感覚が四六時中続いた。立ち上がると眩暈がするし、歩くと頭がふらふらする。そんな僕の姿を生徒たちはこっそり指を差して笑う。余計に頭がくらくらとした。もういっそ死んだほうが良いのではと思った。
 ホームルームがあった。このクラスの担任の話は長い。同じような話をきちがいじみた精神論や生徒に対するいやみったらしい皮肉を交えながらねちねちと続ける。陰湿な熱血系だった。クラスメイトはみな苛立っていたし、無論僕も苛立っていた。お前らは頭が悪いから勉強をしなくてはいけないし休む暇など与えられないしあってはいけない休日は九時間以上自学するのが当然だしそうでもしないとお前らは社会の底辺で一生惨めな思いをしながら生きることになるお前らはそんなのでいいのかお前らがそうでいいなら構わないが嫌なら死ぬ気で勉強をしろ学校が終わっても毎日四時間以上勉強しろ休日に休むな怠けてはいけないし遊ぶ時間なんてお前らには必要ないただとにかく勉強をするだけでいい勉強したくないのなら名前だけ書いておけば合格するような底辺大学にでも行けばいい努力をしない人間にはそれがお似合いだとにかく机に向かえ学べ学習しろ勉強をしろそれ以外一切してはいけない――。
  完全に気が狂っていると思った。根性論の押し付けなど、まともな人間のすることではない。どうやら、大人になると人間はきちがいになってしまうらしかった。
  僕は鞄の中からショットガンを取り出す。信頼性の高さからロングセラーを誇り、民間でも広く使用されているポンプアクション式のショットガンだ。民間でも広く使用されているのなら、僕がこれを持っていても何もおかしくはない。
  担任に見つからないように机の下で弾を込める。椅子の足が床にこすれる音を立てながら勢い良く立ち上がり、銃口を担任に向けながらフォアエンドを前後させチャンバーへ弾を押し込む。担任は唖然としていた。
  トリガーを引く。担任の身体が後ろに吹っ飛ぶ。
  フォアエンドを前後させる。空薬莢が白煙をたなびかせながら床に落下する。
  トリガーを引く。壁に叩きつけられたように身体が跳ねる。
  フォアエンドを前後させる。空薬莢が白煙をたなびかせながら床に落下する。
  トリガーを引く。
  フォアエンドを前後させる。空薬莢が白煙をたなびかせながら床に落下する。
  静寂が教室を包む。ショットガンを下ろした。興奮で息が荒くなっていた。自分を落ち着けるように小さく深呼吸をした。爆音のせいで耳が痛い。クラスメイトはみな呆然と僕を見上げていた。
  黒板の下には見るも無残な死体が横たわっている。
  その後、ホームルームはいつも通りに進行した。普段と変わらない放課後を過ごした。

  ペンを置く。書いた文章をざっと見直し、満足して日記帳を閉じる。今日もいい一日だったようだ。
  ろうそくの火を消すと再び暗闇が部屋を満たした。背筋がぞくりとする。僕は急いでベッドに横になって毛布に包まった。
  すると走馬灯のように一日のことが思い出された。
  身体が勝手にガクガクと震え出した。心の底から恐怖が湧き上がり、得体の知れない寒気が僕の全身を包み込んだ。僕は膝を抱えるようにして毛布を頭から被った。ひたすらに寒かった。どうしようもなく、ただ怖かった。
  知っていたのだ。
  ホームルームの間、間違いなく僕は下を俯きながら担任の話を聞いていた。僕はショットガンで担任を撃ち殺してなどいない。もちろんショットガンなんて持ってないし、ましてや人殺しが出来るほどの度胸なんて無い。
  全て子供じみた妄想に過ぎなかった。その事実が、僕の精神を苛み恐怖へと陥れる。
  ひっ、という声が漏れた。体の震えは止まらない。強く閉じた瞼から涙が溢れた。
  また明日も学校へ行かなくてはならない。誰よりも惨めな思いをしながら、吐き気と眩暈と恐怖感に耐えながら担任の怒鳴り声と人間たちの視線を浴びなければいけない。
  希死念慮が心を満たし、全身に染み渡ってゆく。
「うう、ううう……」
  生きることは、ただ恐怖である。
  僕は夜が明けるのを待ち続けた。