2015/12/02

聖母を巡る人々

聖母を巡る人々

 ナザレのイエスが磔刑に処せられ、聖母マリアによる三日間の献身的な添い寝によって復活を遂げたのは厳然たる史学的事実である。それゆえ、極めて優れた文明を有する現代人が添い寝の無人化に成功した際、それが驚くべき速度で市民の生活に広く普及したのは当然の帰結と言えよう。
 フリードリヒ・シェリングの『神的自由の本質』によって神の死が宣告され、テロスを失った文明が爛熟期に至り、茫漠たる砂漠と比喩されたあの忌まわしい時代を超克させたのは、技術革新でも経済でも政治でも哲学でもなく、添い寝であった。人々は添い寝を喜んで迎え入れ、神の恩寵として日々の仕事に取り入れた。同時に浮かび上がる添い寝手の不在の問題も、添い寝の無人化によって事なきを得ることとなる。つまり、孤独に苦しむ者も、平等に添い寝を遂げる事が可能になったのである。

 日本有数のメトロポリスであるK-メトロの一区画にある九畳ばかりの部屋の、無機質な白い壁に囲まれたベッドの上に、今日も添い寝手が送られる。ベッド脇の添い寝供給口から排出される、人肌に限りなく似せられたそれは、白く縦長い抱き枕のような形状の頭部からスウスウと穏やかな音を立てながら生温かい送風を発し、また優しく吸引する。人々はこれを抱き、安眠と神的幸福に浸るのである。
 現在の全世界に普及している無人添い寝手のほとんどは、ローマ教皇領内の大規模工場で大量生産され、一台一台丁寧にローマ教皇によって祝福されたマリアⅡである(なお、この祝福も無人化されている)。こうして生産され祝福を受けたマリアは、毎年の復活祭の日に全世界へ輸送され、各国の自治体が管理する聖体保管所にストックされ、インフラの一つである聖道を通じて各市民に一日一体が届けられるようになっている。マリアの配達の効率化の為に、個人所有の一戸建て住宅は原則として禁止され、超大規模集合住宅への居住が義務付けられた。やがて超大規模集合住宅は商業施設や工業施設を取り込んでいき、メトロポリスと呼ばれる、あるいは単にメトロと呼ばれる、巨大複合建築都市という一極集中化の極地のような様相へと変化していった。
 僕は本日のマリアⅡを眺めていた。午後九時、マリアが各住居に届けられる時間だ。穏やかな寝息が聞こえる。今日はマリアⅡを抱きしめながら寝る気分ではなかったが、メトロ居住者にはマリアの使用が義務付けられているのでやむを得ない。破れば罰則は免れない。僕は透明なウオッカをグラスに注ぎ、煙草に火を点け、眠気が来るのを待った。
 音の無い静かな夜だった。極めて高い防音性能を有する建築材が発明されたのは何十年前だったか、今では部屋で和太鼓を叩こうが隣室に振動がわずかでも伝わることはない(この建築材の開発が添い寝をする際の静寂の重要性に関連して行われたのは言うまでもないだろう。禅定や瞑想の研究の蓄積は、秘蹟の一種である添い寝に強い影響を与えた。添い寝における密接な相互関係は、外的要因によって乱されるべきではない。不純物の存在しない二者関係を通じて我々は内的世界を探究し、同時に神聖な恵みを拝受するのである)。都市構造から生活様式まで、全てが添い寝の為に用立てられた都市。酔いが回る。最後に本当の日光を浴びたのはいつだったろう。僕はマリアの横で太陽信仰にも近い念を抱いた。
 それでも、朝が訪れる度に僕は敬虔な信者に戻る。ベッドから身を起こし、パンと目玉焼きとコーヒーをテーブルに並べ、厳粛な心持ちで祈りの句を唱える。主よ、主の恵みによりて日々の糧を祝福したまえ……。
 朝食を終えると、煙草を一本吸い、昨晩のマリアを専用のダストボックスに捨て、シャワーを浴びて身なりを整える。身なりを整えるというのは己を律する瞬間だ。洗礼の秘蹟にも似ている。洗礼では、幼児は肉体を水に浸されて罪が清められ、再び着衣文化での生活に戻ってゆくのだ。あらゆる罪をあがなった者は、世俗で罪を犯すことを避ける。外出の為に着衣する僕もまた、罪を犯さずに清い肉体を保たなくてはいけない。日々の行いのすべてが清くあるよう、僕は祈った。
 学園地区は学生たちの賑やかさに溢れていて、その中を教授たちが歩く様子はどこか浮いていた。僕はその学生の群や教授にも当てはまらないような居心地の悪さを覚えながら、いくつかの講義を受けた。教授と実存的信仰に関する表層的な議論を交わした後、K-メトロ最大の歓楽街の第四通りを歩きまわった。日没前の第四通りは人影もまばらで、どこの店も準備中の札を下げていた。旧世代の日本文化を模したであろう石橋を渡る。石橋が跨いでいる川もまた旧世代に愛された一級河川を模した人工河川で、透明な真水が余所余所しく流れていた。
川沿いから少し北にあるバーは、日中も営業しているせいか、学生たちの溜まり場になっている。カウンターで泡の多いビールを飲んでいた友人のNは僕に気付き、ぐいとジョッキを煽り、スコッチを二杯頼んだ。
「スコッチでよかったろう?」と彼は笑みを浮かべた。
「それとミックスナッツを」
 僕がカウンターの椅子に坐ると、カウンターの向こう側でなみなみとスコッチが注がれた。安酒だが、気前が良いのは学生の間で好評だった。僕は胸ポケットから煙草を取り出して火を付けた。
「問題はなあ」と彼は突然話し始めた。「なあ、わかるか、マリアなんてがらくたが世の中に広まったせいで、本当の添い寝の意義が失われちまってんだ」
 僕は頷いた。
「どうにかして女を物にしなくちゃならん。火急の問題だ。大衆ってのはどうして本当の救済に興味を持たないんだ?」彼はよく冷えたロックのスコッチを喉に通した。「お前は分かってる奴だ。教皇庁は添い寝を無人化して、全世界にマリアを売りまくってる。何のために? もちろん、利益だ。今のキリスト教は商業主義に堕落してるってわけだ。そんなところに本当の救済があるわけがないんだ。だというのに、俗人どもは現状に甘んじて、救済の道を辿ろうとしない……」Nは普段より饒舌で、酔いが深いのは明白だった。「真理ってのはいつだって隠されているんだ。アレーテイアを根源的に可能にしているものはレーテーだと説いたのは誰だったろう、ともかく俺たちは教皇庁と戦わなくてはいけない……俺の父は愚かな人だった。ただ毎日真っ白い蝋燭を作るだけの人間だったんだ。少しの意匠もない、白い燃える棒を。教会の他に納品先はなかった。そんな、ほんの少しの価値しかないような人間。こういう人間たちが下らない権力を支えているんだ」
 店員はNの激しいマリア主義批判を気に留めず、忙しなく色々なカクテルを作ったり、ロックグラスに氷とウイスキーを入れたりしていた。相槌を打ちながら、僕はその手つきをじっと観察した。男性らしいしっかりとした手が、トールグラスに細かく砕かれた氷を入れ、バカルディ・モヒートとソーダを注ぎ、カットライムを軽く絞って氷の上にそっと載せる様子。炭酸が逃げないよう、たった一度だけマドラーでステアすれば出来上がるのだ。多くのモヒートがその手で作られていった。学生とはモヒートを好むものなのだ……。
「お前、俺が口先ばかりのほら吹きだと思ってるだろ? いや否定するな、そういう顔をしてる。だが実際の所、俺は反マリア主義の結社に入っているんだ。一つの旗のもとに集う同志というのは実に良い。全く無関係な者同士に流れる、互いの腹を探り合うのを諦めて勝手な思いなしで会話をする時の、気が狂いそうになるよそよそしい空気なんてのは全く無い。最も人間的な関係がそこにはあるんだ。なあ、お前も結社に入らないか? 近い内に大きな動きがある。人類をマリアから解放する偉大なる戦士になるには今しかない」
 僕はNの輝かしい瞳から目を逸らし、何と答えるべきか思案した。店員はグラスを洗い、布の上に一つ一つ並べていた。Nは愚直ゆえに眩しく見える男だった。
「ああ、まあ、興味が無いわけじゃない。反マリア主義という点では同意できる」
「そうだろう、じゃあ一度うちの集会を見てみるといい。きっと気に入るだろう。何なら今から行くか?」
 僕が頷くのを見て、Nは満足気な笑みを浮かべ、僕の分まで勘定を済ませた。ささやかな身売り。僕は何も言わずにNの後ろを歩き続けた。
行き先は第三十三居住区だった、老朽化と居住区の増設の影響で住人が激減し、しばしば非行に走る若者の溜まり場と化すことで知られている居住区。ここには聖道すら整備されていない。暗い廊下を歩きながら、僕は自分がついぞ関わらないに心掛けていた世界に足を踏み込んでしまったのをはっきりと理解した。集会所はここの最南端にある、とNは言った。彼の中では、僕はすっかり結社の一員みたいだった。
 集会所では七人の男女がくつろいでいた。視線が一挙に集中する。Nは誇らしげに僕を紹介した。歓迎の言葉。前髪で左目が隠れた男がいくつかの質問を投げかけ、僕はそれに答えた。背の低い女は笑い声を上げ、隣に座るように誘った。言われるままにソファに座ると、後は他愛もない談笑が始まった。和やかな空気。
 背の低い女は僕の肩に体重を寄せながら色々なことを話した。彼女は毎日がマリアに支配されているのが気に食わず、本当の自由を求めて結社に加入したという。
「結社に入ってから、本当に多くのことを発見したの。自分が立っていた場所が一体どういう所なのか、ようやく分かるようになった。本当の添い寝って、人と人がやるものだって知ってた? 互いが互いを求め、同意の上ではじめて成り立つの。マリアとの添い寝には私の意思なんて存在してないのよ。そんなの冷たすぎるわ」
「なるほど」
「冷たい添い寝ばかりしているから、現代人は他人に無関心になってしまうのかもしれない。馬鹿げた考えだと思う? でも、本当の添い寝をしている私たちはこんなにも人間的なのよ……」
「じゃあ、添い寝をしたことがない僕は非人間的なやつなのだろうか?」
「きっとそうよ、でもあなたには資質がある……ねえ、この後、どうかしら。私が、あなたを人間にしてあげるわ」
 彼女は僕の膝に手を置いて、顔をじっと覗き込んだ。いくつかの考えを巡らす。咎ある、欠落ある人間としての僕の人生について……。返答は決まっていた。恐らく、何年も前から決まっていたのだ。

 彼女に誘われるまま部屋に上がると、彼女はグレープフルーツジュースの入ったコップを渡してくれた。よく冷えていた。一口、二口と喉を通したところで、彼女の手が太もものあたりをなぞるように這い上がってきた。彼女の指が鼠径部、へその傍を通って、薄い胸板を撫で回している間に、彼女はいつの間にか下着を外そうとしながら、顔を押し付けるように僕をベッドへと押し倒した。
 やめてくれ、という声をひねり出すと、彼女は何もかもを承知しているような優しい笑顔を浮かべた。添い寝をするんじゃなかったのかと怒鳴ると、彼女はすっかり醒めた表情で僕の隣に横たわった。僕は安心して眠ることにした。部屋を静寂が満たす。僕は厳粛な心持ちになり、秘蹟を全うすることに全神経を向けた。
この瞬間、僕は添い寝をなし得なかった者たちよりもずっと高い所に辿り着いたのだと思った。僕は罪深き人類に勝利したのだった。人類史のすべてが僕のもとで精算されてゆくのがはっきりとわかった。愚かしい人類よ、と僕は心の中で嘲るように呟いた。歪められた秘蹟に惑わされる愚かなメトロの人々……真の救済へと至ることが出来るのは、何が真であるかを見定める目を持つ者だけなのだ……僕は目を開いて、僕を救済へと至らしめるその者をしかと目に刻んでやろうと思った。
 しかしながら、どういうことだろう、僕は絶望した。肉だ、そこには肉があるのだと絶望した。なんという鬱陶しい吐息、なんという浅ましい肉体、なんという見下げた魂だろう、祈りの対象に形象があるということが、これ程までに耐え難いものだったとは思ってもなかったのだ。何の値打ちもない肉……たとえそれに個別の人格と歴史と顔があろうとも、それ以上のものにはなり得ない……僕は絶望した際の習慣通りに祈りの句を心の中で唱えようとしたが、祈ることすら能わなかった。果たして、本当に聖母マリアは死せるキリストに添い寝をすることが出来たのだろうか? それが聖母たる資質なのだろうか? あるいは、添い寝は復活に関して実際的な影響を及ぼしていなかったのではないか? 大いなる懐疑に囚われてしまった僕は、夜明けを待つ他に無かった。たとえ彼女が肉であろうが、添い寝の秘蹟性が剥ぎ取られようが、彼女を拒絶する理由には値しない。これは僕の精神と信仰に関する決定的な震撼に過ぎないのだから……。

 慎重を期して、彼女が寝息を立て始めてから二時間ばかり待ち、部屋を抜け出すことにした。肉からの脱出。居住区間の連絡路は打ちっぱなしのコンクリートに幾つかの電灯が照っているだけであった。長く伸びる灰色の空洞に、僕はすっかり気が滅入ってしまっていた。煙草に火をつけ、白煙を吐き出すと、いよいよ自分が永遠に救われることのない大罪人のように思え、一刻も早くあの九畳ばかりの部屋の、無機質な白い壁に囲まれた空間に逃げ帰りたくなった。救われぬ者は狭い部屋に閉じこもり、可能な限り窮屈に生きるべきなのだ……。

   *

 K-メトロの聖体保管所が反マリア主義者らによって占拠され、持ち出された大量のマリアが中央街の大教会前の広場で焼却されたのは、僕が結社に勧誘されたおよそ半年後のことだった。あれから反マリア主義者の熱心な活動でその数は激増し、大規模な反乱を起こす程にまで成長していたのであった。その日も僕は朝食後に煙草を一本だけ吸い、シャワーを浴び、日々の行いのすべてが清くあるように祈った。それから大教会前広場の近くのカフェ・クローナーでレモネードを飲み、新聞を広げ、拡声器越しのNの脱マリア宣言を聴き、煌々と燃えるマリアの山の前で警官隊と衝突するN達をガラス越しに眺めた。マリア主義も反マリア主義も、すべて他人事のように思われたが、それでもNは一人の英雄として目に映った。支配より解き放たれよ、支配より解き放たれよ……。
 僕はカフェ・クローナーの隅にNの父親が座っているのに気付いていた。彼はNの騒動を目の当たりにして、一体どんな心持ちだろう? どういう面構えをするべきだろう? 僕は彼の顔を見なかった。ただ、蝋燭作りに向かう前のささやかなコーヒーの一杯を、ただ安らかに味わわせてやりたいと願うばかりだった。彼の無骨な手が作る簡素でしっかりした白い蝋燭は、きっとこの大教会にも納品されるはずなのだ。彼はマリアの炎が尽きるまで席を動かず、とうに飲み終えたコーヒーカップの縁を幾度も指でなぞり続けた。騒ぎが収まると、彼は古びた革の鞄を小脇に抱えてカフェ・クローナーを去った。大教会に背を向け、日々の仕事へと往くのであった。
 翌日からK-メトロのマリア供給は完全に停止した。一部の熱心なマリア主義者を除いて、多くの市民はマリアの無い生活を、さも無意識の内に待ち望んでいたかのように受け入れた。K新聞社は結社の解散を報道した。Nと第四通りのバーで落ち合ったのはその十日後で、彼はいつにも増して泥酔していた。
「俺はやった、成し遂げたんだよ。だが、人々は本当に生身の添い寝を求めていたのか? いやに身の振り方が軽々しいじゃないか」Nはいつもの自問自答するような口調で話をした。「俺は自分の功績が信じられなくなってしまった、父が俺に目をやる度、俺はどうしようもなくいたたまれない気持ちになる……咎を責めるようなあの眼差し! お前がくだらない蝋燭なんかを作ってる間に、俺は革命を起こしたんだ……」
「革命が、」逡巡の末、僕は重々しく口を開いた。「革命が、革命であるというだけで肯定されてはならない……それに、日々の仕事を軽んじるのは、それはやってはいけないことだ……革命というのは、常に前夜でなくてはならない……」
「俺を否定すると?」
「反マリア主義という点では君に共感できる、というのはそういうことだよ。稚拙な反骨心に起因する、馬鹿げた革命欲さ。だから僕は結社に加わろうとしなかったんだ」
「しかし、現にあの女と添い寝をしたじゃないか」
「脳足りんのあばずれ女とな……」
「何も見出せなかったと?」
「絶望を見出したよ。それと、虚しい勝利を」
「それは傲慢だ、他人を巻き込んでおいて、勝手に絶望して諦観の念に浸るだなんて、エゴにも程がある!」
「全くその通りだ。僕は僕の非を認めよう……それで、認めて、僕はどうすればいい? 僕よりずっと大規模な騒動を引き起こし、苦悩している君は?」
「俺は過ちを犯したとは思っていない……間違いなく一つの前進ではあったんだ、だが、その先が見えないんだ……」
 深い沈黙。行き詰まりの空気だけが僕らの間に流れていた。僕はどんな非難も受け入れるつもりだった。救済の光と愚昧な勝利への渇望を取り違えてしまったのは事実なのだ。失態を変質させるのは、何者にも許されない……。
「シラけた面だな、N」いつの間にか前髪の長い男がNの横に座っていた。第三十三居住区の一室で僕に質問を投げた男だった。「添い寝の相手が見つからないのか? 今から第四通りに出て声でも掛けるか? お前は今や有名な革命家だ、相手には困らないだろう」
「俺は今でも救済というものを信じている、だから下卑たふうに言わないでくれ……」
 男は面食らい、少しの間を置いて、くつくつと嗤い声を上げた。
「ああ、そうか、お前はそういう奴だったな」人を値踏みする、あの最も忌むべき暴力的な目線を男は向けた。「何かを信じて止まない、そしてそれを希求し続ける……そういうのが好きな、ばかな奴だ。いいか、誰も真面目に救済なんて考えちゃないんだよ、N。そういうのを見てると、こっちが恥ずかしくなる。みな、口実の為に添い寝をするんだ。わかるだろ?」
「口実、一体何の口実だって言うんだ、おい、言ってみろ!」
 Nは男の胸ぐらに掴みかかって怒号を上げ、腕を振りほどき余裕げに乱れた襟を整える男の頭を硝子の灰皿で殴り飛ばした。耳を塞ぎたくなるような鈍い音。吸殻と灰が舞い、低い悲鳴が上がった。男は長い髪を血糊で濡らし、塵と灰まみれの床にぶっ倒れた。店員がカウンター越しにNを捕らえようと腕を伸ばしたので、僕は慌ててNの腕をひっ掴んで第四通りの人混みに飛び込んだ。
 僕は何も言わなかった。Nには何一つ非難されるべき点が無かった。とはいえども、安価な慰めの言葉を口にするだけの正当性があるとも思わなかった。もう、金輪際こういう運動とは関わりたくない、とだけ思った。添い寝だの、救済だの、いつまで僕たちは振り回され続けないといけないのか? そう考えると、途端にNの英雄的な勇姿や肉への絶望などの心掛かりが、みな重みを失い、実にくだらない事のように感じられたのであった。同時に、これがある種の心理的な逃避であるのも分かっていたが、そうした分析すら無意味な行為であった。
僕は帰る、と伝えると、Nはすんなりと頷いた。数十歩進み、ふと振り返ると、Nの前を自動式のゴミ収集車が通過していった。プレス機構がゴミを押し潰しながら回転する音。僕は狭い部屋の中に収まった。Nはこれからどうするのだろう、とベッドに寝そべって考えた。マリアのいない、広々としたベッドの上で。きっと彼はもうK-メトロにはいられないだろう、顔が知られすぎてしまったのだ、彼はメトロの外でささやかな日々を営むのだろうか、それとも他のメトロで再び反マリア主義活動を続けるのだろうか……。

 翌朝、僕はパンと目玉焼きとコーヒーをテーブルに並べ、厳粛な心持ちで祈りの句を唱えた。主よ、主の恵みによりて日々の糧を祝福したまえ。朝食を終え、煙草を一本吸い、シャワーを浴びて身なりを整え、大学で愚にもつかない講義を聴講し、カフェ・クローナーでレモネードとパプリカチーズを注文した。Nの父があの日と同じ席でコーヒーを飲みながら、午後に備え午前の仕事の疲れを少しでも癒やそうと煙草を呑んでいた。
Nが行方不明になってからも、彼の習慣は何一つ変わらなかった。朝と昼にコーヒーを飲み、昼に煙草を一本だけ吸った。彼の姿を見る為に、僕はカフェ・クローナーに毎日通うようになった。レモネードとパプリカチーズの客になったのだ。大教会を眺めるのが一つの愉しみになった。

 短くなった煙草を灰皿に押し付け、勘定を終えて再び仕事場へと戻ってゆく彼の背中を僕は見送った。

(2015年04月執筆、『SOINEX』所収、同年05月04日第二十回東京文学フリーマーケット頒布)