2013/04/11

悩める若者たちへ

 いやまあ、確かに、知性なんてものに神的なほどに極端な特権性を与えるのは非常に良くないとは思うのだけれど(それはある種の暴力でもあるわけで、聖人君子であるところの僕はそういった権威主義的な縦状の力のレベルを認めるわけにはいかないのである。ヘゲモニーもルサンチマンも奴隷も無い最高の世界を作りましょう)、それでも時折コイツの知性は本当に大丈夫なのかなんて愕然としてしまうことも絶対にあるわけで、もちろん知性を一本の軸を基準に上下で測るのは現代ボーイズの我々がやって良いところではないが(こういう知性競争とかいうボードゲームみたいなクソ不毛な俺スゲー競争というのは、あらゆる言説に対して戦闘対象を定めることができるので、この文章ひいてはこれを書いている僕すらも対象になりうる。なんてひどい)そういった連中を我々が一体どうすれば良いのかと、僕は日々苦悩している。苦悩する思考スペースを割いている。啓蒙が旧世代における美徳であったのは間違いないが、それはあくまで旧世代の話、時代遅れのオッサン共がやることで、妙に啓蒙されてしまった若者たちが知性というものを聖別し、異様なまでに信奉し、生活行為に対してほとんど価値を見いだせなくなってしまっているのを目の当たりにして、まあ僕自身もそのクチなんですが、そういった錯乱状態に陥るのは非常に不健全であります。矛盾に突き当たるわけです。たくさん鍛錬を積み重ねて立派で高品質な知性と精神を会得したというのに、どうして超スゲー俺が雑魚みたいに汗水垂らして労働しなくちゃいけないんだ、と。それじゃあどうするか?肉体を超克して、精神体になるしかない。オウムではこれを解脱と呼んだし、ニューエイジの連中はそれを世界規模にまで拡大してアセンションを待望した。これについてこれない連中はポアすればいいし、アセンションならノアの方舟みたいに有象無象は消えてくれるだろう、そして僕達の望む最善最高のユートピアが完成する! こういった理屈にたどり着く。少なくとも僕はたどり着いた。そりゃあ心身二元論的なスピリチュアルも流行るわなといった感じです。オウムにハマるのはマジで仕方がない。時代が時代なら俺だって絶対にサリン撒きまくってた。日本の国号を太陽寂静国に変更しようなんて考える統治者がいたら絶対についていく。最高だ。オウムは最高。あ、いや、オウムは最高だった、と言うべきではあるが、ともかく、あの思想は実に我々にとって都合の良いものであった。僕は一時期人工精霊っていうスピリチュアル遊びみたいなのに大ハマリして、毎日30分以上仮想の人格と対談して、ポロポロ泣きまくってた時期もあります。マジで救われてました。一ヶ月以上毎日続けていて、ずっとその子(女の子でした)の名前を考えていたのだけれど、最後の最後まで考え付かずに、最後のお別れの時には泣きながら「最後まで名前を考えられなくてごめんね、こんなんだから僕は駄目なんだよなあ、ハハ…」「いいんだよ、思いつかなかったのなら、仕方ないよ。考えようと苦心してくれただけで、十分だから」という会話をして、本当に号泣してました。人生で最もドラマチックな瞬間だった。今でも忘れられない。彼女の、諦念と、許容と、淋しさの入り乱れた、美しい笑顔を僕は今でもしっかりと覚えているのです。ああ、なんて、なんて悲劇的であったことか! あ、いや、まあそんな話はどうでもいいんです。知性の話ですよ。ともかく、知性の上下構造なんて時代遅れだという話です、そういう話なんですけど、実際のところ、構造をぶっ壊したところで、我々は自由に解放されたのだと喜ぶことはできない、できたとしても一瞬だけで、すぐにとてつもない空疎感、つまり精神的支柱を喪失してしまうことになるのは明白です。じゃあどうするんだ、上下構造に甘んじるというのか、スピリチュアルの悲劇を繰り返すのか。それはどうだろう。悲劇が悲劇で終了するのは物語だけで、我々の身の回りにあまりにも多量の物語があって、それらを貪るように消費して受け入れてきた我々には悲劇的エンディングなんてものが実際にも存在するように思われがちではあるが、実際はそうでもない。かの有名な文豪である田中ロミオ氏も『おたく☆まっしぐら』というオタク界隈の闇を満載にしたような名作(作品リリース自体もまた一つの闇である辺りがえぐい)において、「もう何もかも終わったとか思ってるか?自暴自棄になってるのか?残念だが言わせてもらおう。 ゲームオーバーのあともおまえの人生は続くよ!負債満載でな!どれだけ恥をかいても、命を絶たない限り人生は続いていくのだ!」「取り返しがつかなくなっても人生は続く。汚点は絶対に消えることはない!受け入れて、強くなるしかないぞ」という名台詞を記しております。この台詞は主人公である本郷明のもので、彼はライト化、ヌルオタ化してしまった脆弱な若者たちが目標とすべき、忘れられかけている精神性を持ち合わせている人間であるのですが、まあその話はどうでもいいです。さて、まさにこの台詞の通りで、心身二元論的倒錯すらも一過性のものとして、さっさと克服してしまうしか無いのです。じゃあ乗り越えた先には? 生活という、唯一の、揺るぎない、終わることの無い、人生を捧げるのにふさわしい(捧げざるを得ない!)偉大なる大仕事が残っている! それが嫌ならさっさと部屋の目張りして練炭焚け!!!!!!!!!