2015/12/02

泉こなたの亡骸に愛を込めて

泉こなたの亡骸に愛を込めて

 かつて、らき☆すたがあった。僕はらき☆すたと共に生活をしていた。……こうした不穏な文章を書いている今、僕の心は毒を盛られたかのようにすっかり麻痺してしまっている。僕は今、泉こなたの亡骸を前にして悲痛に泣き喚くこともなく、ただそれが腐敗していくのをじっと眺めているのだ。嘆きや悲痛を超えた何かをもってして、泉こなたの亡骸を無表情に見ている。ああ、彼女はとうに死んでしまったのだと、そうした事実を確認する心情しか動きはしない。それでも決して彼女の擬似的な死に追悼の意を表さないわけにはいかない。かつて生活を共にしていた最愛の友人の死を悼まない人間が一体どこにいようか?
 泉こなたについて、僕の方から少しばかり説明をさせて欲しいと思う。これを読むあなたがもしよければ、ぜひとも話を聞いていって欲しい。こればっかりは僕の単なるわがままだから、あなたに強要することは出来ないのだ。……。……さて、泉こなたは、あなたも御存知の通り、”典型的なオタク”で、背が小さく、ロリ体型で、髪は青色で長く、ぴょこんと大きなアホ毛が立っていて、体育が得意な女子高生だった。夜通しネトゲをしたり、居間のテレビでゲームをしたり、アニメを観たり、コミケに行ったり、メイド喫茶でバイトをしてたり、そういうオタクな女の子だった。あの時はオタクといえばバンダナでリュックでライトセーバーでシャツインで犯罪者予備軍で、そういう疎まれるべき人々だった。今じゃそこらの女子中高生だってボカロを聴くっていうのに、ともかく当時はそういう時代だった。友人の柊かがみもオタクだった。こなたほどではないけど、ラノベは小説だからオタクじゃないとでも言わんばかりの態度で、オタク趣味がバレないように尽力するような、そういう見栄っ張りな女の子だ。まあ、かがみはこなたみたくオタクであることに誇りを持てなかったんだ。世間体を考えると、それも仕方がないことだ。他にも、柊つかさとか、高良みゆきとか、いろいろな友人がいた。趣味で通じ合うわけでもなく、ただ普通の友人として彼女らは仲睦まじかった。オタクの領野を飛躍して、単なる友人同士として関係を構築していた。自分が関与する余地もなく振り分けられるクラス制度の中でうまくやっていけていた。きっとそれは彼女らの人間性のなし得た偉大なる仕事だったのだと僕は思う。そうした日常こそ、なんとも微笑ましい情景だった。彼女らのじゃれ合いを見るだけでスッと心は晴れやかになったし、こなただって彼女らと共にいる間はよく笑っていた。
 ここまで読んだあなたはきっと「何をさも自分がアニメの中の人間であるかのように語っているのだ」と不快感を覚えるかもしれない、自然なことだ。僕がそういう風に書いたからだ。それを踏まえて、僕はここでひとつの重大な告白をしなくてはいけない。それは、僕は彼女らの日常を、ただモニター越しに観ていたに過ぎなかったのだ。けれども、僕は決してらき☆すたと共に生活をしていたという発言を撤回しない。むろんこれは単に『らき☆すた』の視聴が僕の生活の一部になっていたというだけではない。もっと重要な、『らき☆すた』特有の性質について語らなければならない。決して単なる生活に根付いた感覚ではなく、もっと主体的に切実なものがあったと主張しなくてはいけない。それが何よりも泉こなたに対する最も誠実な態度だし、僕はそれを偽って外面を取り繕うだなんて到底考えることは出来ない。もしそのようなことが出来る人間がいたのなら、僕は何よりも軽蔑するし、倫理の一線を踏み越えてまでナイフを心臓に突き立てかねないだろう。ともかく、『らき☆すた』というのはそれほど真摯な出来事だったのだ。
 ところで、あなたは『おたく☆まっしぐら』という美少女アダルトゲームをご存知だろうか。2006年に銀時計というブランドから発売された田中ロミオがシナリオを担当した育成シミュレーションゲームだ。未完成発売、パッチの中途放棄などと様々な問題を抱えている作品だが、主人公の本郷明は泉こなたと共通するような極めて強固なオタク観を有している。オタクであることに誇りを見出し、人生を捧げるべきだと判断し、なりふり構わずに趣味に傾倒する主人公だった。泉こなたとの差異を述べるのであれば、泉こなたは決してその主義を他者に強要することがなかったという点である。事実、そういったオタクであることにある種の気高さを見出すマッチョな主義の風潮は紛れも無く当時も存在していた。同時に、実際にはオタクであることを公言できずにインターネット上でそれらの趣味や欲望を発散させるような屈折した人々も多かった。それは柊かがみであり、僕でもあった。そんな僕が『らき☆すた』を観るのである。自己投影せずにいられるわけがあるまい。いや、正確には自己投影ではなくらき☆すたの世界に同時に生きているかのような錯覚である。僕はそれが錯覚であることを否定しないし、かと言って彼女らと生きていたように切実に感じていたという事実も否定しない。僕は本郷明のように堅牢ではなかった。らき☆すたは、その程度の僕に訪れた一抹の光だった、自己肯定の嵐だった。
 『らき☆すた』には、今日日の日常アニメには無い特有の性質があった。俗に言う「あるある」で、シンクロニシティでもあった。こなた達は頻繁に「あるある」の話題で盛り上がる。それはオタクならではの「あるある」でもあるし、当時に固有の「あるある」でもあった。それを請け負うのは泉こなたであるし、もっと一般的で生活的な「あるある」を担うのは柊つかさだった。更に言えばそれを解説するのが高良みゆきだったし、「あるある」に対して同感したりツッコミを入れるのが柊かがみであり、また同時に僕だった。こなたが涼宮ハルヒのパロディをする度に僕は切実な共感を覚えてけらけらと笑った。同時に、あたかもかがみのようにおいおい!などとツッコミを入れてしまうような心情も抱いた。『らき☆すた』はオタクな少女を主軸にして展開されるアニメだったから、インターネット上での自分は泉こなたで、現実での自分は柊かがみのようだった。あるいは、共感者として彼女らと接しているかのようにも思えた。『らき☆すた』にはこうした同時代的なリアリティが内在していた。モニターはアニメを映す機械ではなく、インターネット上の人間とコミュニケーションを取る為の機械として『らき☆すた』を映していた。当時に限り、僕と泉こなたと柊かがみと柊つかさと高良みゆきはまったく対等で平等な人格として存在していた。
 それでも無情に時間は過ぎる、月並みな言葉だが、しかしやはり時間は過ぎるのだ。けいおんがあって、ゆるゆりがあって、GJ部があって、きんいろモザイクがあって、ゆゆ式があった。僕はそれらにひどく傾倒した。主人公が悪を打ち砕く物語でもなく、ダークヒーローが正義の鉄槌に抗うのでもなく、少年少女が恋をするのでもなく、単に普通の少女たちが普通に暮らすだけの物語に永遠や無限を見出した。それが僕の精神の一切であるようにも感じられた。アニメを観ているだけで世界のあらゆる可能な事態が僕の前に開かれているように感じた。けれども、いくらアニメを観ようとも、時折思い出したかのように僕の中の泉こなたが僕に語りかけてくるのだ。不意に心に影が差し、自らの罪を暴き返し懺悔を要求するように、泉こなたが僕に問いかけてくるのだ、『らき☆すた』の存在について! 僕は深く苦悩した、『らき☆すた』を見捨てて次のアニメの世界に没入してしまっていいのかと、僕の存在の余地のない世界に傾倒していいのかと、泉こなたのことをすっかり忘れてしまっていいのかと、あの共有した世界や時間について、僕はすっかり過ぎ去ってしまったものとして処理をしてしまっていいのかと! その度に僕は強い後悔の念に駆られて『らき☆すた』を讃えたし、人々にふれて回った。もう一度『らき☆すた』を思い出せと言い、あの頃の精神性を取り戻せと叫んだ。それでも、『らき☆すた』は過ぎるのだ、らき☆すたではなく『らき☆すた』として! 過ぎ去ってしまったらき☆すたは『らき☆すた』として作品名を与えられてしまうのだ、まるで写真にタイトルを付けるかのように、過ぎ去ってしまったものとして記憶を定着してしまうように!
 だからこそ僕は言う、年月が過ぎ、『らき☆すた』の同時代性が陳腐化してしまった今だからこそ言うのだ――泉こなた、僕は君を愛していた、と。これが恋心であったか友情であったかは定かではないが、同志であり、尊敬すべき先導者でもあった泉こなたを、僕は愛していたと表現する他にない。『らき☆すた』は過ぎ、「あるある」というある種の強要的な共感を捨て去った日常アニメが台頭していった現在は、もはや僕は美少女らと対等に接することができなくなってしまった。我々はただ美少女らの戯れを眺めるだけの監視者になってしまった。それに満足してしまうような精神を養ってしまった。それでも、決して屈すること無く、かつての王国が存在したという事実を刻むように、僕の、K坂ひえきのTwitterのbioには、誇らしげにこう記されてある。陳腐化に屈せぬ美しい心情が確かに存在していたのを忘れぬように。「――泉こなた! 俺はその名を聞いたことがある! いつだったかまるで思い出せやしないが、確かにほのかな感情だけは感じられるのだ! そして、俺がその名に輝かしい愛をそそぐ限り、君は永劫に消えることはないのだ! 覚えていてくれ! これだけは確かだ!」
 僕はもはや泉こなたという名を愛していたと宣言することしか出来ない。自分の心情に誠実になるのであれば、それ以上のことは決して出来ないのだ。なんせ、らき☆すたは灰となって散り散りになってしまったし、人々はその灰を上手に完成した世界に昇華してしまったのだから。もはや僕の中には『らき☆すた』という名前しか残っていないのだ。
 僕だって散々泣き叫びたいのは山々だし、泉こなたはそれでも対等に生きていると堂々と宣言したいと心の底から思っている。しかし、しかしだ、郷愁がそれを拒むのだ。泉こなたが愛したものを、僕はもはや新鮮に楽しむことはできない。常に郷愁という悪魔が入り込み、活き活きとしていたはずのそれを泉こなたの存在ごと腐敗させるのだ! だから、僕は僕が愛していた泉こなたそのものに愛を注ぐことはもはや不可能なのだ! 僕に出来るのは泉こなたを愛していたと弁明することと、過ぎ去ってしまった泉こなたに観念上の空疎な愛を捧げようと試みることしか出来ないのだ! きっと、泉こなたが今の僕を観たらきっとこう言うだろう――次のアニメでも観ればいいじゃんって。まったくその通りなのだ。それこそが健全で建設的で合理的な判断だ。でも、泉こなた、僕は君の亡骸に語りかけていると理解していながらもこう考えてしまうのだ。泉こなた、君はそれでいいのかと。このまま永遠にオタクたちの過去として、埋没してしまっていいのかと。彼女がそれにどう返答するのか、僕は想像することを拒む。肯定するのであればあまりにも悲劇的であるし、否定したところで泉こなたにも、僕にも決して手出しすることは出来ないのだから。それゆえに僕は彼女の返答をたとえ空想の内部であれ確定しない。ただ、無力にも空疎な救済の祈りを彼女に捧げるばかりである。
 僕は時折、もっと愚直に泉こなたは俺の嫁などと宣言出来るほどの愚かさが欲しいと望む。あるいは、泉こなたのことなどすっかりと忘れてしまって、次々と放映されるアニメを消費するだけの人間でありたかったと切に願ってしまう。しかし、そうはいられなかったのだ。泉こなたはすっかり死んでしまって、今の僕が見ることができるのは泉こなたの無慈悲な亡骸だけだ。静かに横たわって、あるのか無いのかもわからないような棺の中でぼんやりと存在しているかのように思える泉こなたの死骸だけなのだ。僕が関与する余地もなく、死んでしまった泉こなたの死骸なのだ! 僕にはその亡骸がすべての仕事を終えてまったく満足しているようにも見えるし、これから訪れるだったであろう黄金のようなオタクたちの華々しい時代を迎えられないという事実に為す術もなく打ちひしがれているように見える。彼女はすっかり過ぎ去ってしまったのだから――。
 そしてこれを書いている僕は、泉こなたと僕の関係を単なる悲劇的な物語として昇華させてしまおうとしていることに大きな恐怖を覚えている。決してそんなつもりは無いと言い張りたいところではあるが、事実としてそれは悲劇だ。手のつけようがないほどの悲劇なのだ。泉こなたが現在に為す術がないように、僕にだって泉こなたの為に成し得ることは一切ないのだ。泉こなたの亡骸を前にして、友情と敬意を払うことしかできず、何も彼女のためにしてやることはできないだ。――だからこそ僕は泉こなたの亡骸を泣き喚くことなく眺めている。僕は決して君と再び逢えることを願いはしないし、僕の中から忘れ去られてしまうことを願うことだって無い。死骸を眺めるのだ。ただ、腐敗するその亡骸に愛と追悼を込めて。

(2014/03月執筆、『しあわせはっぴーにゃんこ』所収、同年05月05日東京文学フリーマーケット頒布)