2016/05/08

ノトラとテニカ

ノトラとテニカ

 昼の二時を過ぎると、ノトラはデッキチェアとビーチパラソルを抱えて浜辺に向かい、そこで日光浴をするのが日課だった。潮騒と、サバルヤシの葉音。ノトラはエスピンビールの瓶をときおり口に運びながら、ニエラレ煙草を出来るだけゆっくりと吸い、一昨日観た映画やこの後の宗教史の講義のことを思い浮かべないようにして、自分が一匹の生物であるかのように自然を享受しようと努めた。
 彼女は限りなく永遠に近いこの時間を愛していた。彼女にとって、この日課はある種の儀礼であり、人生を継続させるだけの理由を与えてくれる唯一つのものだった。生物として、この恵まれた環境を満喫することの他に生きる理由があるだろうか、彼女は常にそう考えていた。
 仄かな酩酊感と心地の良い日差しにうとうととし始めた頃、ノトラのもとに午後の講義を終えたばかりのテニカがやって来た。彼女は丁寧にアイロンがけされた白い半袖のシャツに丈の短い赤のネクタイを締め、細身のチノパンの裾を折り曲げて履いていた。以前にノトラはもっと女性的でラフな格好をしたらいいのに、と彼女に提案したが、彼女は頑なに自分のスタンスを崩そうとしないのであった。
「また日光浴? 毎日毎日、よく飽きないね」
「テニカこそ毎日毎日講義に出て、よく飽きないよね」
「義務だからね」
「私だって生命としての義務を果たしているだけだよ」
 テニカは苦笑いを浮かべ、鞄からタブレット型携帯端末を取り出した。
「今日の分のノート送るよ」
「データで? 私は紙のほうが好きなんだけどな」
「自分で印刷しなよ」
「端末持ってきてないしね」
「じゃあクラウドの方にアップしとくよ」そう言って、テニカは端末を操作する。「ところで、この後の講義はいいの?」
「宗教史かあ……どうせ結論は分かりきってるし、あまり気が乗らないな」
「それなら取らなきゃいいのに……」
 一度こうなると、ノトラが講義に出席しないのは目に見えていた。ノトラの出席率は極めて低いが、筆記試験で落第点を取った事は一度も無い上に、いつだって彼女は卓抜したレポートを書き上げる。己の勤勉さを誇りに思っているテニカは、幾度かノトラを僻んだこともあったが、いつしかノトラの成績表を見る度に黒々とした感情を抱いても仕方がないと思い直すようになった。重要なのは己の勤勉さをいかに活かすかであって、勤勉さを盾に怠惰な人間を糾弾することではないのだ。
 かくしてテニカはノトラの世話を焼くようになった。元来、世話を焼くことにある種の快楽を覚える性格ではあったが、自分の快楽の為に他人の世話をするというのは非倫理的な行為なのではないか、という疑念から臆病をこじらせていたテニカのたがを外してやったのは、紛れも無くノトラであった。一度、この疑念をノトラに打ち明けた時、欲動を適切に満たして快楽を得るのはむしろ倫理的だとノトラは主張した。隅から隅までこの主張を受け入れる事は出来なかったが、それでもノトラの言葉はテニカの世話焼きを後押しし続けた。
 テニカは砂浜にハンカチを敷いて座り込み、雑談を交わしたり端末をいじったりしながら、ノトラが日差しに満足するのを待った。
 ちょうど宗教史の講義が開始する頃に、ノトラは大きく伸びをして立ち上がった。デッキチェアが僅かに軋む。
「さあ、帰ろうか」
「大学に?」
「家にだよ……大体、大学に着く頃にはもう講義は終わってるよ」
「それもそうだね」
 ノトラはビール瓶を海に放り投げてから、ノースリーブのシャツの胸元に下げていたサングラスをかけ、デッキチェアとパラソルを畳んで両脇に抱えた。

 ノトラのアパートは市街地の西の離れに位置し、彼女のお気に入りの海岸は更にそこから西の熱帯林を抜けた所にある。市街地より西の一帯は数十年前に整備されるも、予算縮小による開発凍結の結果、繁殖力旺盛な植物たちに再び飲み込まれた地域で、熱帯林を貫く道路には亀裂や陥没が珍しくない。そんな中をノトラは毎日一時間も費やして歩いた。二輪モーターを運転するテニカに言わせてみれば、ノトラは文明に取り残された未開人に他ならなかった。ノトラに随伴する度、テニカは100キロ近い二輪モーターを手押しせねばならず、不満の言葉を幾つか漏らした。
「なんでいちいち歩くんだよ……」
「私は歩くのが好きだからね」
「ノトラ、車輪って知ってる?」
「私が求めてるのは過程なんだよ、目的地に到着するのはそう重要じゃない。歩くために歩くんだ」
「付き合わされる身にもなってよ……」
 ノトラがケラケラと笑い、煙草を吸おうとポケットに手を伸ばした時、低く響く歌声のような音を耳にした。
「巡礼者だ」
「声する?」
「うん」
 じきにテニカもその歌声に気が付いた。地の底を這い回るような、単調な旋律のモノフォニー。歌声は徐々に近付いてきた。巡礼者たちの行列の姿を視認すると、ノトラは苛立たしげに舌打ちをした。巡礼者はみな一様に広い円形のツバに半球形のクラウンの帽子を頭に乗せ、丈の長い外套を引き摺っている。陰鬱な黒で統一されたその姿を見る度に、ノトラは耐え難いほどの憎悪を覚えた。死後の救済にばかり気を取られて、現世をこのくそったれた巡礼で埋め尽くす馬鹿な連中のことが理解できなかった。生きる楽しみを知らないくせに、自分たちだけは神秘の秘儀を知っているのだというあの蔑視が、ノトラにはどうしても耐えられなかった。巡礼者たちは二人に目もくれず、地面を見つめながら旋律とも分からぬような音を発し続けていた。
「反吐が出るね」巡礼の長い列を耐え忍んだノトラは悪態をついた。「一刻も早く皆殺しにしてやりたい。形而上のものを希求して形而下のものを軽視するなんて、愚かにも程がある」
「宗教理論を学ぶのは楽しいんだけどね、それに賛同するかは別にして」
「神に帰依するということは、従属と抑圧を自ら選ぶということなんだ。あいつらはそれを理解していない。もっと軽やかに生きるべきだ」
 二人はノトラのアパートに荷物を置き、市街地の隅にある古びたレストランでモヒートを飲みながら赤インゲン豆のチキンライスと生アボカドのサラダを食べた。ラジオからは音の悪いサルサが流れていた。テニカはこの店で夕食を食べるのがたまらなく好きだった。薄いガラスが嵌めこまれた木造の扉を開き、色あせた白い漆喰の壁を潜るのが。いつ足が折れるかもわからない程に使い込まれた丸テーブルの天板を覆う無地のテーブルクロスの上でモヒートを飲むのは、文明人としての歓びに他ならなかった。例えここが時代に取り残された店であろうとも。テニカは、出来ることならこの店のように朽ちてゆきたいと常に願っていた。けれども、ノトラはこのレストランに何の感慨も抱かなかった。彼女にとって、役人達が好みたがる現代風の洒落たレストランだろうと、辛気臭いしみったれたレストランであろうと、酒と飯さえあれば何の差も無かった。彼女はそういう人間であった。
 夕食の後、テニカはノトラの部屋で荷物を回収し、自分の部屋でシャワーを浴びて、タブレット型携帯端末のボイスレコーダーアプリで日記を口述した。口述で日記を付けるのは彼女が物心ついた頃からの習慣だった。彼女は生来より想起や空想を偏愛する性質で、去来する様々な観念を一つ一つ筆記していてはきりがなく、何か良い解決策はないかと彼女なりに思案を巡らせた結果生まれたのがこの習慣であった。
「……本日快晴、七時に起床して九時に測量学と精神分析学の講義を受ける。昼食はホットドッグ……ああ、そういえば朝食はクロワッサンとスクランブルエッグとコーヒーだった。まあ、いつも通りのメニュー」彼女はこの「まあ、いつも通りメニュー」を何百回と繰り返してきた……。「午後は身体論の講義。それからノトラのとこに行って、いつもの店でチキンライスとサラダを食べた……ああ、なんだかごはんを食べることしか頭にない奴みたいな日記になってるなあ、そうだな、ノトラはどうして毎日の日光浴が出来るのだろう? 習慣ってのには二種類ある、惰性によるものと理性によるものだ。ノトラのは惰性なのだろうか、いやノトラは本能の怪物みたいな奴だから、あるいはこの二項対立の図式に当てはめて判断する事自体が誤りなのかもしれない……」
 テニカはじきに心地の良い眠気に襲われ、ボイスレコーダーをオフにして目を閉じた。

   *

 この街の一日は、信者の陰鬱な行進で始まる。信者は朝と昼に一度ずつ、この島に点在する石碑を訪れ祈祷を捧げるのだ。それは信者にとって欠かせない儀式であり、信仰の証であり、救済を切望する意思の表明であった。
 テニカは起床を命じる目覚まし時計を止めて、洗面所で顔を洗い、白いシャツに袖を通して短い赤のネクタイを締め、細身のチノパンを履いた。朝食のメニューは決まっている、これから学生専用アパートに併設してあるパン屋でクロワッサンを買い、スクランブルエッグを調理して食べるのだ。変わることのない彼女の日々。彼女は人生とは反復であることをわきまえていた。それ故に彼女は多くの習慣を自らに課した。クロワッサンとスクランブルエッグ、古びた天板を覆う白いテーブルクロス、丁寧にアイロンがけした白いシャツ、ボイスレコーダー。取るに足らない一つ一つの事柄を、彼女は冷徹な心持ちで実行した。
 朝食を食べ終え、ベランダに洗濯物を干し終えた頃に、ノトラがテニカの部屋に訪れて来た。ノトラは自分の部屋のようにベッドに倒れ込み、ぼうっと天井を眺めた。
「暇なんだよね、暇ってのは人間を腐敗させるよ、本当に」
「人間を腐敗させるよ本当に、五七五だ」
「何それ」
「ネットで流行ってるんだよ」
「ふうん」
 テニカはグラスにレモネードを注いでノトラに手渡した。
「ありがと」
「アルコールいる?」
「ラムを貰おう」
 そう言って、ノトラは棚からラムの入った瓶を取り出してレモネードに注ぐ。
「でも、暇と言われてもこちとら予定なんて無いよ」
「二輪モーターに乗せてよ、そういう気分なんだ」
「別にいいけど、どこに行こうか?」
「どこだっていい、昨日も言ったろ、肝心なのはどこへ行くかじゃなくて何をするかだ」
「好きだね、その考え方」
「過程を目的にしてしまえば、結果に気を病む必要はなくなるからね。生きる知恵だ」

 テニカは極力交通の少ない郊外の道を選んで二輪モーターを走らせた。四輪の速度に敵うはずもなかったが、それでもフルスロットルで走り続けた。森林を抜け、西方海岸沿いにこの小さな島国を一周した。液化天然ガス火力発電所、無人の鉱山都市、ニエラレ社の煙草の看板……この国は紛れも無く繁栄していて、そして空洞になっていったのだ。残された人々の小さな生活だけが、巨大な資本主義経済に食い潰されたこの国には残っていた。
それでもノトラは終始愉快げにはしゃいでいたし、テニカはそれを見て確かな満足感を覚えた。昼時にはコーヒースタンドでハムとチーズのハンバーガーを食べた。数少ない観光客が人気の少ない静かな海岸を見に行こうとわざわざ喧しいエンジン音に耐えながら一時間も狭苦しいバスの座席に座り続けようやく到着したと思ったら想像よりずっと閑散としていて野生植物がそこら中に生い茂る様に悪態をついてしまうような場所で、そういった観光客を目当てにしているコーヒースタンドだった。観光客は一人もいなかった。
 市街地に差し掛かると通行人が増え、テニカはスピードを落とさざるを得なかった。交通信号にも従った。
 けれども、信号機というものは自ら車両に轢かれようとする者にとっては全くの無力、それどころか彼の目論見を達成させるのに大いに有用で、青信号を確認したテニカの前にふらりと現れた男に気が付いたのはノトラであった。ノトラの声にはっとしたテニカは慌ててハンドルを右に切り、路肩に乗り上げる衝撃に面食らいながらもこれを回避した。
「馬鹿野郎、死にてえのか!」
 すっかり放心している男に、ノトラは途轍もなく大きな声量で怒鳴りながら駆け寄った。
「俺は死にてえんだよ!」
 男は狂人のような声を挙げてノトラに向き合った。
「ようし、なら私が殺してやる、テニカ、何か殴るもの持ってきて」
「ちょっと落ち着きなよノトラ、誰も怪我してない、バイクも無事だ、わざわざ喧嘩する必要はない」
「自力で自殺も出来ないような奴を生かしておく必要は無いんだよ」
「その通りだ、俺を殺してくれ!」
「二人とも頼むから落ち着いてくれよ!」テニカは悪目立ちするのを何としてでも避けたかった。こんな馬鹿げた男のせいで厄介事を背負い込むのは御免だし、何よりノトラは本気でこの男を殺すだろうと直感した。「ひとまず落ち着いて話し合おう、ほら、ノトラも殺すのなら町中じゃ都合が悪いでしょ」
「確かにその通りだな、よし、森のほうに行こう。その間にお前の言い分を聞いてやる。私を納得させられたら殺してやろう」
 男はそれに合意した。男の言い分はこうであった。人間の本質は自由であり、それを体現することこそが人類に課せられている使命である。これは納得の行く考えであるが、しかし実情を見れば我々はむしろ自由の刑に処せられているではないか。これは本質からの永遠疎外で、我々の乾きが満たされることは決してありえない。この辺りで、ノトラは一刻も早くこの男を殺したいと願った。話は続き、現代社会における革命対象の分散化がもたらす革命不可能性についての熱弁が始まると、ちょうどそこに巡礼者の行進が通りかかり、お前も信者になればいいとノトラが茶化すと、男はそれも考慮したが形而上の救済を渇望するというのは永遠に到来しない神の国の門を叩こうと宙で腕を振るようなものだと答えた。ノトラはそれに同意して、分かってるじゃないかと男の背中を叩いた。
「つまり、あんたは歴史哲学的膠着状態に陥って絶望してたと」
「僕の絶望を一切慮らずに総括するなら、そうなる」
「ひとつ、良いことを教えてあげよう」ノトラはそう言って男の鬱屈とした目をじっと見つめ、にやりと笑った。「そういう時は川に行くと良い」
「川?」
男は怪訝な顔をした。
「あるいは海だ。ここであんたを殺すつもりだったけど、このまま海に行こう」
 陥没や亀裂の多い、熱帯林を貫く道を三人は歩いた。ノトラもテニカも男の名すら知らないままであったが、それでも横に並んで歩いた。潮騒が近い。男はこの二人の少女の軽妙さに唖然としつつも、何らかの救済の光を少女たちに見出していた。
 熱帯林を抜けると、依然として海は広がっていた。夕陽は水平線の向こうに沈み始め、爛々と煌めく黄金の大海原以外のものをすべて黒い影に塗り替えようとしていた。風がサバルヤシの葉の間を抜ける。
海が広がっているのだ、と男は考えた。人間の本質や絶対的革命ではなく、そこには海が広がっていた。存在者が存在している! 突如として、彼はかつて経験した事のないような驚きと確信に満たされた。白い泡を浮かべる波に足を浸すと、その確信はよりいっそう強まって彼の全身を駆け巡っていった。私の身体が外界と内界を媒介する器官として機能しているのだ! 彼はそう叫んで、全身で海というものの存在を確認する為に、両腕を広げながら海の中へと歩いて行った。波が身体を覆い込む度に、彼は気絶しそうなほどの歓びを感じ、生命に関する圧倒的な強度を備えた肯定の手法を遂に発見したのだと考えた。これが生きるということなのだ、これが生きるということなのだ! 彼は叫びまくった。
「単純な奴だね、単純さというのは時に重要だけどさ」
 男の様子を眺めながら、ノトラはニエラレ煙草を吸った。
「まあ、ノトラが人殺しに手を染めなくて良かったよ」
「流石にそんなことはしないよ……」
「結果的に人助けになってるしね」
「意図したつもりはなかったんだけど」
「まあ、ガラじゃないよね」テニカは大きく伸びをした。「しかし、これからまた歩いて帰らないといけないのか」
「よく移動するほど、気は晴れるってもんだよ」
「別に気晴らしが必要なほど滅入っちゃいないよ……」
 そう言って、テニカは気を滅入らせた。

 再び一時間掛けて市街地に戻ると、男は礼を言って立ち去っていった。去り際に、ノトラが「いいか、海を信じろ。あの陰鬱な抑圧を強いる神じゃなくて、海を信じるんだ。陽光のさんざめく水面の中に一つの神を見い出せ」と念を押すと、男はノトラの思想を賞賛する言葉を並べ立てていた。
 その後、テニカはいつものレストランで夕食にしようと提案し、ノトラはそれに同意した。薄いガラスが嵌めこまれた木造の扉を開き、色あせた白い漆喰の壁を潜り、トマトソースのかかった白米と目玉焼きと青バナナの揚げ物を食べ、モヒートを飲んだ。
「ノトラ、本当にそう思ってるの?」
「何が?」
「海のことだよ」
「ああ。半分くらいはね。残りはアジテーションだよ」
「だろうと思った」
 テニカはモヒートに刺さった赤いストローでクラッシュド・アイスを弄びながら独りごちた。
「現代文明を毛嫌いする人間ってのはそこら中にいるんだ、鬱屈と不満で頭の中をいっぱいにして、これは本当の自分じゃない、これは本当の自分じゃないと言い聞かせながら生きているような連中がさ。中には社会のシステムから逃れようと訳の分からないような山奥に閉じ篭って、原始的な生活を送る奴だっている。馬鹿げてるだろう? 私はそんな人間にだけは決してなりたくないと願っているんだ」
「へえ。もっと気楽に気構えればいいのに。自然に湧き起こる欲求の声さえきちんとキャッチしておけば、それだけで苦悩なく生きられる」
「ノトラほど気楽になれる奴は少ないよ」
「そればっかりは理解しようがないなあ」
 やはりノトラは大いなる野獣だ、とテニカは思った。悠々と大地に横たわりながら、虎視眈々と獲物を狙う野獣。何の不安も無く、何の罪の意識も無く。何が生命の維持に必要で、何が己の欲求を充足させるのか、彼女はすべてわきまえているのだ。その上での、理性の行使。恐らく、彼女にとっては先の男との喧嘩も一つの享楽であったに違いない。一方でテニカは男と近しい精神性であった。習慣と愛着、そしてノトラが欠けていたらテニカもあの男のようになってしまっていただろう。テニカはぞっとすると共に、ノトラに感謝の念を抱かざるを得なかった。すべては生きるという喧騒と駄弁のもとに埋没してゆくのだ。その中で時折ほとばしる愛着の閃光を捉える……そうやって私たちは生きてゆくべきなのだ……反復と習慣……絶対的なものの不在を……。テニカは愛おしげな眼差しをテーブルクロスに注いだ。古びた天板を覆う白いテーブルクロスに。そうしてモヒートの赤いストローをすすった。ノトラは満足げにモヒートを飲んでいた。
 レストランを出ると、ノトラは一晩中飲みまくろうと提案をした。テニカは口の端を吊り上げ、首肯した。二人は酒屋でエスピンビールを三ケース買い込み、テニカの部屋で夜が明けるまで飲み続けた。ビールやラム酒を飲み、サルサで踊ったり、ニエラレ葉巻をふかしたりして、それらを大いに満喫した。二人は身体性などというものには決して考えを巡らせないで、そのふざけた晩を愉しんだのであった。

 やがて夜は更け、東の水平線から朝日が昇ってゆく。巡礼者の陰鬱な行進でこの街の一日は始まるのであった。今日は何をしようか、とテニカは尋ねた。ノトラは泥酔し切った頭を悩ませて、うむむと呻いた後、眠たいから寝る、と答えた。テニカはその通りだと笑ってからラム酒を煽り、ベッドにぶっ倒れた。

(2015年04月執筆、『Flippant Segment』所収、同年05月04日第二十回東京文学フリーマーケット頒布)

ロータリィ・フラワー

ロータリィ・フラワー

 駅前のロータリーに無数の白いタクシーが停まっている。時折、黒やシルバーの軽自動車が人々を降ろしたり乗せたりして、ロータリーをぐるりと回ってどこかへと消えて行く。車と、その運動と、その停車がロータリーという空間を成立させているのだと思った。循環と停滞……その総体。
 ツツジの植え込みがロータリーの車道と歩道を分けるように植わっていた。開花の盛りは過ぎているようで、鮮やかであったろう独特の赤みは斑点となり、みすぼらしい薄桃色の上にぽつぽつと姿を残すだけであった。その様子とこの町を照らし合わせて衰退に思いを馳せることはしなかったが、それでも拭い切れない寂寥感が胸に残った。
 高水あさひはバス停留所のベンチに腰を掛けて、セブンスターに火をつけた。
「バス停周辺は禁煙だよ」
「誰も気にしないさ」
 彼女は満足気に煙を深く吐き出して、薄い雲に遮られた空を見やった。陽光は散漫に町を明らませている。きっとこの町はいつまでも薄明るいのだろう。何よりも明るくなく、何よりも暗くない、そういう町なのだ。
「煙草、美味しい?」
「最高だね……」
「それはよかった」
 あさひは不意にツツジを指さした。
「あの枯れ際のツツジが、何か意味を示していると思う?」
「植物が自ら意味を示すことはないんじゃないかな」
 断定はせず、若者らしい懐疑的な姿勢をほのめかすように答える。
「……例えばね、もしも峰くんが、これは何も意味していない事を意味しているのだ、と伝えたい時はね、決してそれを口に出してはいけないよ。何も言わず、何事もないかのように、退屈そうに宙に視線をやったり、煙草を吸ったりするといい。私みたいにね。あのツツジだってそうだよ。すました顔で、自然に枯れていってる。そういうところが可愛いやつなんだよ、ツツジってのは」
「じゃあ、あのツツジは何か企みをこさえているって?」
「さあ、それはどうだろうね」
 あさひはくつくつと笑い、宙に視線をやって、煙を吐き出した。彼女は肝心なところを煙に巻くのが好きなのだ。僕もあさひに倣って退屈そうに宙を見やる。数台の車がロータリーを廻り、またどこかへと走っていった。
 あさひはフィルターが熱くなるまで吸い切って、ペットボトルに入れた。僅かに残った緑茶が吸殻に滲み込み、小気味いい音を立てて鎮火した。表情には出さないが、あさひは喜んでいるように思えた。これほどの喜びを彼女に与えるものは、恐らく煙草の他にはないだろう。煙の似合う少女だった。彼女はペットボトルを何度も振って、ペットボトルの側面にべたりと引っ付いてはまた反対側に飛んで引っ付くぶよぶよの吸殻を凝視していた。退屈ゆえの弄びではなく、彼女は心底楽しげに時間を潰していた。僕はふいに携帯で写真を撮った。彼女は少しも気に留めずにペットボトルを振った。
「ちょっと早いけど、どこかでご飯でも食べようか」
「そうだね」
「何か食べたいものは?」
「うーん、餃子」
 僕らは立ち上がって、人通りの無い大通りに出た。白と赤の看板が光っていた。餃子の王将だ。あさひはここでいいと言うふうに頷いた。贅沢できる程の手持ちではなかったから、少し安堵した。ひどくぬめった灰色の床の粗野な踏み心地に僕らは満足を覚えた。店内に客の姿は無かった。カウンターの席に並んで座ると、あさひは愉快げにメニューを見た。餃子を三つと炒飯を二つ注文した。あさひは真っ先に運ばれてきた中華スープをれんげで啜り、極上のワインを舌で転がすように味わった。
「味覚って、素敵だね」
 僕は微笑を浮かべた。
「喜んでくれたのなら何より」
「人間には五感ってものが備わってるじゃん?」
「あるね」
「それを歓ばせるのは理性に与えられた義務だと思わない?」
「義務ってほど厳格なものかな」
「少なくとも、無碍にするのは生命に対する不義だよ」
「なるほどね」
 次に、艶やかな半球の形に盛りつけられた炒飯が運ばれてくる。
「モスクの天頂みたい……」
「これから君はその美しいモスクを破壊し、食物として口の中に放り込むわけだ」
「そのために作られたものだからね。制作物に与えられた意図を汲み取り、それを遂行する事は極めて重要だよ。理性の為せる神聖な儀式だよ」
「なるほどね」
 あさひは何かの神聖な儀式のように、神妙な動作で炒飯を一口ひとくち丁寧に口に入れた。僕はすっかり見惚れてしまっていた。彼女のほっそりとした白い指が、餃子の王将の安っぽいれんげをしっかりと掴み、少しの危なげもなく、厳かに、それでいて踊るように、口へと運んでゆく。喜びで微かに紅潮した頬をもぐもぐと動かして、新鮮な驚きと生命であることの神秘的な恩恵を丁寧に吟味するように咀嚼している……ガラス扉を透いて、赤みを帯びた金色の斜光が炒飯の欠けた丘陵を輝かせていた……これを注視している世界じゅうでただひとりの人間は僕なのだ。彼女が僕の顔を見て微笑みかけるということはない……それでいい、それでいいのだ……。中華スープの器は空っぽだった。空っぽの器は僕を悲しくさせる。おかしなことだった。どうして空っぽの器が僕を悲しくさせるのだろう? この器だって、すました顔で、何事もないかのように、退屈そうに宙に視線をやっているじゃないか……。
「峰くん」と彼女は言った。「変な顔してるね」
「ああ……」
「きっとそれは何かを意味しているからだ」
「ああ……きっとそうだろう……そうに違いない」
 餃子の皿が置かれた。三人前が一つの皿に載せられている。あさひはそそくさと割り箸を手に取り、丁寧に割って餃子をつまんだ。一方で、僕の割り箸は不格好に割れたということはなく、あさひと同じように綺麗に割れた。随分と遅れてしまっていることに気がついた。急くように炒飯を口に放り込み、中華スープを流し込んだ。餃子だけは時間をかけて食べた。沈み際の金色の光はたとえようもなく美しかった。極端に人影の少ないこの町にも、美しい金色の光は訪れるのだ。黄金色の残照よ……。
 勘定を済ませると、街灯がぽつりぽつりと人通りの無い路地に明かりを降らせていた。駅前ロータリーに戻る途中でコンビニに入って缶ビールとスルメを買い、タクシーにもたれかかりつつ煙草と缶コーヒーで安息を得ている運転手たちを横目に、ロータリーから西へと続く路地を一分ほど歩く。地上から上階に向けて薄くなっていく茶色のグラデーションのビル。縦長い箱のように簡略化されたフォルムに、数多の真四角の窓が所狭しと配置されている。僕は四方を囲む白地の看板に青の東横インの文字をみとめた。清潔なロビーでチェックインを済ませている間、あさひは物珍しそうにあちこちを見回していた。
「峰くん、カレーサービスがあるんだって。六時から八時まで」
「うーん、夕食は済ませちゃったからなあ」
 しかしここのカレーはさぞ美味しいだろうと考えた。ライスは丸く丁寧に盛り付けられ、ルウはまろやかな味で、じゃがいもはきっと柔らかく、見事な紅色の福神漬もついているだろう。あさひは餃子が食べたいと言ったが、もしかしたらカレーのほうが食べたかったのかもしれない。カレーで腹を膨らせて、部屋に戻って缶ビールを飲むのは素晴らしいことだろう……餃子とカレーを比較することほど馬鹿げた考えもない、どちらも素晴らしいであろうことなど考えるまでもないのだ。
 あさひはベッドに飛び込み、柔らかくも硬くもない快適なベッドと清潔なシーツの感触を楽しんだ。ダブルベッドだったので、あさひの細身なら三人はゆうに横たわれるだろうと思った。僕は荷物をテーブルの足に立てかけ、椅子に腰掛けて、缶ビールのプルタブを引いてあさひに渡した。
「いいのかなあ、飲んじゃって」
「いいさ、どうせ誰も見てない」
「乾杯しようよ」
「何に?」
「うーん、万物に」
 缶をそっとぶつけ合って、アルコールを摂取する。
「それにしても、お酒で酔えるってのは幸せなことだよ。アルコールを摂取するだけで心地の良い酩酊を得られるように創られている人体に感謝しなくちゃ。人類、最高」
 あさひはビールを飲みながら、饒舌にいろいろな話をしてくれた。彼女は人類が生命を有し、また文明を持っていることに尊い歓びを感じていた。時折、神さまに祈るようなこともした。神の存在を信じているのかと尋ねると、へらへらと笑いながら祈りの尊さを説いてくれた。僕も祈らなくてはいけないと思い、あさひに倣って祈りを捧げた。酔いが回り、何に向かって祈りを捧げたのかはよくわからなかった。ともかく、人通りの無いこの町の駅前にある東横インの一室で、僕とあさひは祈った。あさひの祈りの句を必死に聞き取ろうとしたが、うまく頭が動かなかった。それでも祈ることはできた。祈らなくてはいけない。ともかく、祈らなくてはいけないのだ……。祈りは生命と理性のある者にのみ可能な行為なのだ、なんと素晴らしいことなのだろう。祈りの歓びは人間らしい歓びを生む、それなのに僕は今まで敬虔に祈ることをしなかった。祈ることなく、不幸な生活をしてきたのだ……祈りも、ビールも、餃子さえも、僕に生きることの素晴らしかったことを思い出させてくれた。人間らしい幸福……。
 狂おしいほどの静寂が一室に蔓延していた。どうやら眠りに落ちていたようだった。ベッドから身を起こす。あさひはデスクに突っ伏して眠っていた。僕はあさひのかわいらしい寝姿を写真に撮った。あさひは安らかな寝息を立て、静かに肩を揺らしていた。あさひはデスクで何をしていたのか。あらかたの予想はついていたものの、それでも好奇心に駆られて覗き込む。一枚の紙。僕はそれを手に取り、ベッドに座り込んで読んだ。遺書であった。読み終え、僕はあさひをベッドに寝かせ、自分もその横に伏した。
 僕は悲しかった。率直に言うのなら、やりきれない気持ちでいっぱいだった。あさひは死ぬ算段なのだ。とうに知っていたことだが、どうして遺書のひとつでこれほどまでに現実味を帯びるのか。単なる紙と、インクの滲みではないか。いいや、違うのだ。これには決然たる意味があるのだ。文字はツツジと異なり、自ら意味を表明しているのだ。そしてそれを書いた者の意図も……。文字は宙に視線をやって退屈げに煙草を呑みはしない……。遺書には意味が充満しているのだ、むせ返るほどの意味が……あさひ……。生命を称揚する君ですら自ら死のうと言う、だというのにどうして僕のような者が生きていられようか……。いっそ心中や後追いをしてしまうべきではないか……。きっとあさひは僕を軽蔑するだろうが……。……。



 ホテルの朝食サービスを食べるあさひは、依然として喜ばしげであった。音を立てず丁重に味噌汁をすすり、黒ごまのおにぎりをかじり、玉子焼きとほうれん草のお浸しを危うげなく口へと運んだ。食後のコーヒーにはミルクをたくさん入れていた。
「コーヒーなんて、久々に飲んだよ」
「ミルク、入れ過ぎじゃない?」
「これくらいでちょうどいいんだよ」
 部屋に戻り、出立の用意をした。あさひはベッドに腰掛けて煙草を吸い、少ない荷物をまとめる僕を楽しげに眺めていた。
「海を見に行こうよ」
「うん、きっと良いものに違いない」
 海は近かった。ホテルをチェックアウトし、横断歩道を一つ渡って路地を真っ直ぐ歩くと眼前に海が広がった。寂れたフェリー乗り場だったが、それでも僕らの前には夢の様に美しい海が広がっていた。砂浜もなく、ただコンクリートの防波堤が陸と海洋を分断しているばかりであった。テトラポットすら見当たらない。無感動で陰鬱で簡素な海辺がこの上なく美しく見えた。右手には小高い山が薄く見え、左手には真っ白な煙突が膨大な煙を吐き上げているのが見えた。あさひは防波堤に腰を下ろし、煙草に火をつけ、足をぶらぶらと揺らした。僕は写真を撮った。この上なく尊い写真になるだろうと思った。あさひは振り向き、僕に向かってやさしげな笑みを浮かべて、指を二本立ててピースマークを見せた。僕は逃すまいともう一枚写真を撮った。波音とも言えないようなささやかな音だけを僕とあさひは感じていた。薄雲に遮られた日差しはほんの少しだけ水面を照らし、砕け散ることもなくいつの間にか消えてゆき、絶え間なく降り注がれてくる新たな日差しが再び水面に反射する。そういった反復をただただ目で追った。あさひはぼうっと宙に視線を向け、煙草を吸い、やがて海へと消えていった。
 海へと消えていったというのは散文的な描写にすぎない。事実、あさひは縄で両足をぴたりと縛り付け、口を使って器用に腕まで縛り、それから縛り上げた手で煙草を口元に運んで肺いっぱいに吸い込んで海に投げ捨て、身をよじらせて飛び込んでいったのだった。彼女に相応しくない動きではあったが、それでも彼女は誰の手も借りずに一人で溺死を成し遂げた。彼女は波に揺られながら沈み、しばらくして幾つかの気泡が水面で弾けた。それがあさひの最後の呼気だった。かわいらしく、やさしい気泡。僕はあさひともっと何時間でも一緒にいたかったから、何をするでもなく堅い防波堤に座り続けた。この海が長崎の輝かしい海だったらどれだけ素晴らしかったことだろうと考えた。長崎の海は光に満ちているのだ、天使たちは長い坂の上を舞い、海を燦燦と照らす。天高く、天高く……。しかしここは長崎ではないのだ。日本海ですらない。長崎にあさひはいないし、あさひはこの町の海に沈んでいったのだ……あさひは長崎の海で沈んでゆきたかったのではなかったのだろうか、彼女に訊こうにも、もはや容易な問答すら適わないのだ……。いつまでここに居たいと思った。永遠に、果てしなく彼女と共に居続けられたのなら、それはなんと素晴らしいことだろう。きっとそのまま根が生えて、意識は消え、根はコンクリートを貫いて深く深く張り巡り、彼女の肉体を包み込むのだ……あらゆる悪意、欺瞞、無関心、疫病、悪夢、呪詛、寂寥、恐怖から彼女を優しく保護する……。再開発が行われるまで共に居続けられるのだ、悪意ある役人共が僕らを分かつまで……。
 僕は荷物を抱えてフェリー乗り場を後にした。駅前ロータリーにあるバス停のベンチに腰掛けた。バス停の塗装は剥げかかっていたし、あちこちが錆び付いていた。ロータリーにタクシーは無かった。送迎の車も見えず、そこには僕と枯れかけのツツジだけしか存在しなかった。ロータリーは、車と、車の運動と、車の静止によって成立していると思っていた。車の無いロータリーだってあり得るのだと、僕の馬鹿げた観念とは相反する事実だってあり得るのだと僕は初めて知った。それはあさひの教えてくれなかった事だった。彼女はこの事を知っていたのだろうか。彼女の哲学と相容れない事実を、彼女は受け入れられるのだろうか……いや、彼女の回答など容易に想像がつく……生命であることを誰よりも受け入れていた彼女ならきっとこう言うだろう……軽い微笑を浮かべつつ……。……。しかし、彼女はすべての可能態の連関から断絶されてしまったのだ……彼女はもはや世界の如何なる幸福にも関わることができない、ああ、彼女が生きてさえいれば……生きてさえいれば、何だって出来たのだ……真っ白なテラスから夢の様に美しい海を眺めることも、清らかな湖畔を臨む赤い尖塔の教会で祈りを捧げることも、屋根裏部屋で柔らかなワルツを踊ることも、入道雲の聳える田園の畔道を歩くことさえ……僕たちは何だって出来たはずなのだ……可能態、それは素晴らしい。それゆえに人生は素晴らしい、理屈からいって人生はまったく素晴らしいのだ……。
 僕は人気の無い真昼のロータリーですすり泣いた。はやく、はやくロータリーが動き出して欲しかった、あれほど無価値に思えていたタクシーや軽自動車が恋しかった、小癪なエンジン音が聞きたかった。ツツジの花が枯れつつあった。その花の枯れ様は、世界のすべてに対して素知らぬ顔をしているふうな赤みを帯び、それでもなお毅然としていた。僕は生きていることが疎ましく覚え、自死を考えたが、次第に億劫になり、ベンチから立ち上がってズボンをはたき、荷物を抱えて新幹線の自由席券を購入し、故郷へ戻ることにした。駅のホームでは数枚のあさひの写真を何度も見返した。どれも素晴らしい写真だと思った。当然のことだ、なぜなら彼女は素晴らしい写真になるように生きていたのだから……。
新幹線は遅れず、定刻通りに人々を運んだ。



 こうして実際に遺書をしたためてみると、中々戸惑うものです。あれほど多くの事を書き遺しておきたいと常日頃から思っていたのに、いざとなると不思議と最適な言葉が浮かばないのです。もっと冷涼な心持ちで白紙に向かえるものかと思っていました。これは戸惑いの一種なのか、何らかへの執着なのか、診断に参ってしまいます。
 峰くんにはとても感謝をしています。感謝の念を伝える言葉ではちっとも足りないほどです。言葉とは肝心な時に役に立たないものですね。峰くんが私に与えてくれた最上のものは、無理のない、自然な交わりでした。そういったものが欲しかったのです。ずっと願っていました。時々、あまりにも寂しくて、それ以上のものを求めたがってしまうこともあったけれど、私が真に求めていたものはやはりそれしかなかったのです。皆、私にたどたどしく接するものですから(もちろん、たどたどしく接してしまう理由くらい分かっていますし、やむを得ないことだと理解もしていました)、峰くんは私の心に長らく欠如していた精神的な栄養を与えてくれました。それが全き共感であるとは思っていません。完璧な共感なんてありえませんから。けれど、互いに共感したふりをすることは出来ます。私にはそんなハリボテすら縁がなかったので、本当に嬉しかったのです。
 たった一日でしたが、峰くんが見せてくれた外の世界はとても魅力的でした。『テンペスト』の一節が頭をよぎる程でした。この島はいつも音で満ちている、だから怖がることはない、と。以前はあれほど毛嫌いしていた猥雑な喧騒も、騒々しい喚き声も、今ではとても愛おしく感じられます。私たちが耳を傾けるような音楽など、比べようもなく素晴らしいものです。人間が多く生きているということは、とても素晴らしいことです。これまで目を背けていた自分が情けなく思え、赤面してしまいそうなほどです。峰くんはどうかこの世界を嫌ってしまわぬよう、私は祈っています。
 自らの手で自らの命の始末をつけられるというのは喜ばしいことです。これほど誇らしいことはありません。高原の家屋に居たままでは、私は惨めたらしく衰弱を待ちながら自然死するだけだったでしょう。高原の家屋は素晴らしいところでした。陽光は静謐で、空気は清涼としていて、穏やかで美しい時間が流れていました。けれども同時に激しい寂寥を覚えざるを得ないものでもありました。私はそこで様々な書物を読んで過ごしましたが、書物は同じ文字しか表さず、生命の麗しい多様性をちっとも教えてくれませんでした。生命であることのありとあらゆる歓びを心行くまで享受せずして、何が人の生でしょうか。静謐な陽光と冷涼な空気に囲まれるだけでなく、この町のような世界を知ることも大きな歓びとなりうるのです。猥雑であれ、閑散であれ、絢爛であれ、一切は歓喜に値するのです。
 この後、峰くんはどうするのでしょうか。再び故郷へと帰り、万事これまで通りの生活へと戻ってゆくのでしょうか。私はそれが最良だと思います。憂鬱だろうが、退屈だろうが、それは愛着を覚えるのに十分なものです。憂鬱な心地すら、私たちは愛おしく思うことが出来るのです。それが私たちに与えられている能力のうちで玉座に据えるに値するものなのです。ですから、親愛なる峰くん。世界への愛着を、どうか忘れぬよう。
20XX年6月12日
高水あさひ

(2014年7月執筆、『ただいまサナトリウム』所収、同年9月14日第二回大阪文学フリーマーケット頒布)