2013/03/19

昔の日記みつけた

昔の日記みつけて読んでたらこれは良いコンテンツになるぞと思ったのでインターネットの風に乗せてコンテンツにします。


12/26
 そもそも我々は既存の世界に生きている以上、完全なオリジナリティを創造することは不可能に等しい。そこから可能な限り脱却するには、精神宇宙を認識するべきである。自身の精神に依存せよ。それはお前を裏切り見捨てることはしない。(※精神宇宙そのものの拡大の為に薬物投与が有効??)

1/12
 つらいのは過ぎた。学校へ行かなくなったからだろう。然し今度はこの恐怖、不安である!! やってられるか! それでも俺はやらねばならぬ! 少しでもみじめにならぬようにするために!

1/18
 日常の出来事を書こうとしても、昼ごろに起床し、パソコンをし、たまに塾へ行き、深夜4時まで怠惰的に勉強をする生活では、特筆すべき出来事なんて起こらないし、そもそも家族以外とコミュニケートすることもない……。何をしても終始まとわりつく不快な虚無感をぬぐうことができない。これがせめて退廃美的なものであればまだ良いのだが。腰の痛みも治ることなく、集中的に勉学に打ち込まず、ただ、怠惰的な時間が窮屈に流れているだけである。淀んでいる…。

1/21
 人間は嘲弄が快楽であることを覚えたし、それに伴う苦痛を無視して、それを良しとした。もはや麻薬である。聖人は多くは存在しないらしい……。
 ほんっとに死んだほーがラクなんじゃねーーのってくらいクソつらいしどうかしてる。どうかしてるを受け入れたらおしまいだ、諦念の美学に自身を投影するのはまだ先でいい、行きたいという意志はあるのだ、やりたいこともそれなりにある、しかし、現実はあまりにも

1/22
 衒学っぽい人間がうっとうしいのだけれど、ヤツらを倒すにはより強度の高い知性が必要だしクソムカつくっぽい。

1/29
 自殺の予定を立てた。可能性の一つとしてありえる。いくつかの可能性のうち、最も惨めなことになってしまったら、実行しようと思っている。こうして文章に書き起こすのは、決心にちょうどいい。これは自分を追い詰める為の決心ではなく、もしそうなったら死ぬ、というごく単純な、たとえるならそのようなシステムを作った程度である。
 私は絵を描くのが好きで、このまま描き続けると一体どのようになるのかという期待を抱いて描き続けてきた。その不確定的な希望の行く末を見届けるのだけが私の唯一の死なない理由で、それが出来なくなるのは非常に残念であるが、然し、惨めな末路を歩むのと、その希望、それを比べるのは非常に心苦しいものであるが、前者のほうが私にとっては恐ろしいのである。他者がこれを何と思うかは知らないが、私にとって恐ろしいというのは、私においての全てである。
 さて、これで回避、あるいは怖気づいてしまった場合、この文章は大層こっ恥ずかしいものになるだろうが、まあそれはそれで良いのである。生きているに越したことはない。矛盾するけれど。
 どうなるか、まるでチョコレートの箱のようだ。ある意味、楽しみである。

2/24
 いろいろとやることが終わった。何も考えたくはない。ただただ不安で恐ろしいだけである。とにかく憂鬱である。それ以上を書くのは不可能である。何を描いても、惨めになるだけだからだ。

2/27
 いろいろと無事に済んでから数日が立った。もはや私の心に立ち込めていた暗雲はかき消えて、不安定な精神だけが残っている。いずれ再び悪夢に逆戻りするであろうことは分かっているのだが、それでも今は心を踊らせていたいのだ。すこやかこそ良きものであることに疑う余地はない。ああ私はただこの状態がわずかでも長く続くことを祈るのみである。

3/18
 人生、、、すなわちそれは、、、、労働、、、せねば、、、、いずれだ、つらい、モラトリアムは永遠に続いてくれぬものか

3/19
 世の中にはどうしようもない人間が我々の予想以上に大勢いて、彼らを啓蒙してやるのは不可能だと分かりきっているはずなのに、人々は自らそれに触れ、指差し、あわれだ、あわれだと嘆く。必要なのはそれを切り離すことだ。関わる必要はなく、ただ隔離するだけで良い。それを骨折ってまで保護するのは慈愛ではない、悪魔的な義務だ。我々は生きやすい手段をいちいち選択しない悪癖がある。我々は上手く生きるべきだ。
 ヒューマニズム、それは尊い、


(ここで日記は途切れている)