2013/09/01

妹がお兄ちゃん大好きすぎて困っているのですが

『妹がお兄ちゃん大好きすぎて困っているのですが』

「オタクってキモいよね」
 有島になとはそう言った。
「はあ?」僕は思わず間抜けた声を上げた。「どうしたんだよ、いきなり」
 線路沿いの帰宅路を並んで歩く。線路と道路の間には広々とした土地に砂利が敷き詰められ、駐車場として利用されていた。高校と駅を繋ぐこの道は、いつも学生の姿が見られる。
 になとはいかにも真面目そうな表情を作って僕に話しかける。
「いや、オタクってキモいよなあって思ってさあ」
「になとだってアニメ好きじゃないか」
「まあそうだけど」
「なんだよそれ、同族嫌悪?」
「いやそうやって切り捨てちゃうのは簡単だけどね……」
 彼女は苦笑した。どうも彼女の発言の意図が掴めない。
「例えばさあ、エヴァの新作とかまどマギの映画を劇場まで観に行くじゃん? するとそこにはオタクがいっぱいいてさ、みんな開場を待ちながらわいわい談笑してるんだよね。その光景を見てるとさ、オタク死ね! って叫びたくなるんだよね。オタクはキモいから死ねって叫びながら、バットかなんかでオタクを蹴散らしたくなるんだよ。もちろんそんな事は出来ないけど……」
 になとはバットを頭に振り下ろす真似をした。肩の下までふわりと伸びた髪が揺れる。
「ワハハ、なんだそれ」
「それで、普通に映画観て満足して帰るの」
「オタクのくせに群れるな、って事?」
「うーん、別にそういうわけじゃないんだけど……」
「気持ちは分からなくも無いけどな」
「だってさあ、チビで天パでメガネじゃん。どこ見てるのか分かんないし。そのくせしていっぱしの文化人気取りでアニメ観て漫画読んでゲームしてるんだよ。どう考えても気持ち悪いでしょ」
「随分偏ったイメージだな……今時、オタクなんてそんなに珍しくもないだろ」
「ああ、そうだね。最近オタクも一般化したよね」
「インターネットだとライト層とかヌルオタなんて蔑称でよく馬鹿にされてるけどさ」
「それもそれでキモいけどね」
「じゃあなんだ、DQNとかギャルみたいなイケイケ系が好みなのか?」
「はは、そんなわけないよ」
「なんだよ、批判ばっかだな。女って批判ばかりでろくに現実的な意見を出さないんだよな」
「自分以外が苦手なのかもね……まあそんなことよりさ、妹の由衣ちゃんはどう? 風邪は治った?」
 急な話題転換に少し戸惑う。少し気分を害してしまったのかもしれない。
「ああ、由衣ならもう良くなったよ」
「よかった。由衣ちゃんに漫画借りててさ、読み終わったから返そうと思ってたんだけど、風邪で寝込んじゃってる時にお邪魔するのも悪いと思ってさ」
 僕の妹の由衣はになとと仲が良い。由衣はになとに憧れに近い友情を感じているように見える。年齢差のある関係は大方そういうものなのかもしれない。
 僕は足元の石ころを蹴飛ばした。石ころは僕達が歩いている歩道から飛び出して、フェンスをすり抜けて駐車場の敷石の中に紛れ込んだ。
 駅が近付いてきた。傾いた夕日が架線鉄柱の陰を切り抜いている。改札を抜け、雑然とした連絡路を通ってホームで電車を待った。

 地元の駅で電車を下りてになとと別れ、帰宅する。
「あっ、お兄ちゃん、おかえり」
 エプロン姿の由衣が駆け寄ってくる。僕は返事をしながら鞄を手渡す。由衣はお節介焼きだ。僕によく懐いて、なにかと献身的に尽くしてくれる。共働きで帰りの遅い両親の代わりに家事を請け負っている。学業と家事を両立させるなど彼女の苦労が偲ばれるが、彼女はむしろそれに充足を感じていると言っていた。世間的にはあまり良い家庭環境と言えないが、当人がそれで良いと思っているなら変化を起こす必要は無い。
「お兄ちゃん、勉強はどう?」
「母さんみたいな事を訊くなあ」
「だってお兄ちゃん受験生でしょ? ちゃんと勉強しなきゃだめだよ」
「そうだけどさ」
 お節介焼きである。
「でも、勉強しないのも含めて、お兄ちゃんがそれで良いって思うなら良いんじゃないかな」
「そうやって圧力掛けるのやめろよ」
「圧力じゃないよ、本心だよお」
 由衣はにこにこ笑いながら僕のブレザーを受け取ってハンガーに掛けた。
「そういう由衣はどうなんだよ。高校受験だろ?」
「私は大丈夫だよ。お兄ちゃんと同じところ行くもん」
 僕はソファに座り、ぼうっとテレビを眺めた。由衣は台所で夕飯の用意を再開した。
「僕のところなんて大した学校じゃないだろ」
「いいの、私が行きたいんだから」
 僕はうんざりした気分になった。由衣は勉強が出来る。もっと上の高校を狙えるはずだ。恐らく僕が通っているから、という理由なのだろうが、由衣が高校に上がる頃には僕はもう卒業しているし、それは理由として正当ではない。けれど、彼女が行きたいと言うのなら、それを止める道理は無いだろう。
 由衣の作った夕飯を食し、自室で雑誌を読んで時間を潰し、風呂に入る。
 湯船に浸かって、帰り道にになとが言っていた事を思い出す。彼女の意見は少々極端ではあるが、しかし僕の心のどこかに間違いなく存在していた違和感、不快感を確実に言い表していた。確かに、キモい奴はキモいのである。それが一般的に同族であろうとも、その嫌悪感をもみ消すことはできない。それほど僕の感情は都合よく捻じ曲げられるものではない。何とかしてこの問題を解消出来たら良いのだが。そう簡単に住み分けが出来るような事ではない。事実として、相容れたく無い相手は存在するし、それを「嫌い」のごく個人的な感情に依拠したラベル以外で分類するのは困難である。だからこそ、気持ちが悪い。まるで自分の身体に強姦魔の親の血が流れているような、それは間違いなく自分の存在の一部に属するものであるが、その存在の起源と処遇はどうすることもできない、そういった類の嫌悪感を感じるのである。唯一、それを処理するには、許容することしかないのである。圧倒的な生理的嫌悪を叩き伏せて許容してやるしかない。しかしそれは自分の身体に強姦魔の血が流れていることを認める行為である。許容が感情と一致するのはありえない。
 そういった思考を積み重ねていると、突如、風呂場のドアが開いた。
 由衣が立っていた。少女期特有の華奢な肉体に、白いバスタオルを巻きつけている。胸は未発達で、隆起らしい隆起は見られない。僕は目を逸らす。
「お、お兄ちゃんっ?」
 由衣は顔を真っ赤にして動きを止める。状況がうまく把握できていないように見える。
 僕は極力冷静を保って、声が上ずらないように扉を閉めて風呂場から出て行くように告げた。
「ごめんね、お兄ちゃん、気付かなかったの、悪気があったとかそういうわけじゃないの!」
 謝罪の言葉を述べて、その場を動こうとしない。
「いいから、はやく出て行って。また風邪引くよ」
 少し苛立ちが口調に滲んだかもしれない。それを察してか、由衣は慌てて扉を閉めて風呂場から出て行った。
 静けさを取り戻した浴槽で、僕は湯の小さな波をじっと見つめた。感情が落ち着いてくる。冷静にならなくちゃいけない。今のような失態は、犯すべきではない。
 由衣のこういうヘマは、しばしば見られる行為だった。僕の着替えに遭遇したり、先ほどのように入浴中に誤って遭遇したり、そういったのは何度か経験していた。恐らく、由衣はこういうドジを犯しがちな性質を持っているのだろうと、僕はそう納得するようにしていた。
 リビングに戻ると、由衣はソファの上で体操座りをして、恥ずかしそうに俯いていた。
「由衣、風呂に入りなよ」
「うん、ごめんね、お兄ちゃん……」
 とぼとぼと浴場へ歩く由衣の背中を見送った。

 朝、僕はいつも由衣に起こされる。目覚まし時計いらずだ。
 由衣が用意した朝食を食べ、登校の準備をする。簡単ながらも、バランスの取れた朝食だった。
 一緒に家を出て、由衣が玄関の鍵を閉めるのを待つ。
 ゴミ出しをしている隣家のおばさんと目が合う。
「おはようございます」
「あら、おはよう。今日も仲が良いのねえ」
 由衣が駆け寄ってくる。
「えへへ、おはようございます、今時の兄妹なんてこういうものですよお」
 由衣は腕を絡めて笑顔で挨拶をする。
「あらそうなの? 仲睦まじいのは良い事ねえ……」
「由衣、そろそろ行かないと。じゃあ、これで」
 自転車で駅へ向かう。中学校は家に近いので、由衣は歩きだ。
 僕と由衣の関係は、確かに一般的な兄妹像と比べると相当に友好的である。異常だ。むろん僕はそれに不満を抱いているわけではない。何ら不都合は無いのだ。けれども、腹の底にもやもやしたものが渦巻いているのは否定しようがなかった。

 放課後、になとは音楽室でピアノを弾いていた。彼女は終礼と共にすぐさま帰る連中を、こういうのはおよそ意思疎通に問題を抱えている人間だが、ぼんやりと眺めた後、いきなりピアノが弾きたいと言い出した。普段から用事のない僕はそれに同行した。彼女にピアノを弾く趣味があるとは知らなかったが、吹奏楽部の練習が休みの曜日を知った上で、空いた音楽室を使おうというのだから、恐らく何度か音楽室に通っていたのだと思う。
 僕は椅子に座って映画雑誌を読んでいた。
「この曲、なんて名前だったっけ……」僕はになとに訊いた。
「『コロンバインのために』」
「えっ?」
「冗談よ。『エリーゼのために』だよ」
 ああ、そうか。そういう名前だった気がする。
 彼女は心地良さそうに身体をゆったりと揺らしながらピアノを演奏し続ける。
「ベートヴェン、好きなの?」
「この曲が好きなの」
「そうなんだ」
 音楽室が斜陽に満たされている。彼女は橙色のきらびやかな反射の中で、穏やかに『エリーゼのために』を弾き続けた。僕はその音色に哀愁のある切実さを感じた。彼女はエリーゼへの叶いようのない愛情に愛を込めているようだった。
「ねえ」
 彼女は演奏を止めた。
「うん?」
「どういうふうに感じた?」
「この曲が?」
「そう」
「そうだな……言葉にするのは難しいけれど、愛情と郷愁、というか、なんだろうね」
「こっ恥ずかしいこと言うんだね」
「なんだよ、人に尋ねておいて」
「でも、まあ、だいたい合ってるかな……」
 になとは再び演奏を始める。
「私はね、ベートーヴェンがエリーゼにどんな感情を抱いていて、それがどういう結末になったのかなんて興味無いの。今更そんなものに価値があるとは思えない」
 よくわからない。それならば何故彼女はこの曲を好きなのか。
 しかしになとはこれ以上何も語らず、ただピアノを弾き続けた。本来の演奏時間より明らかに長い。同じメロディを延々と繰り返している。音楽に詳しくない僕でもわかった。
 二十分ほど弾き続けただろうか、彼女は唐突に演奏を中断して僕に言った。
「やっぱさあ、この曲にはFPSが似合うよね」
「はあ?」
「人を撃ちたくなってきたなあ。そろそろ帰ろう」
 彼女がそういった暴力的なゲームを好んでいるのは知っていたが、あまりに突拍子もない発言だった。僕は彼女の意図を何一つ把握できないままだった。有島になとは孤高であると、ふと思った。

 家に帰ると妹が待っている。
 今日は父母共に帰れないという。僕らは由衣の作ったカレーライスを食べた。
 ソファに体重を預けてバラエティ番組を眺めていると、洗い物を済ませた由衣が台所から芋焼酎を持ち出してきた。
「ねえお兄ちゃん、これ、飲んじゃおっか」
 かつて、好奇心でこっそりと二人で親の酒を飲んだことがあった。保管場所も知っていたし、どの程度の量なら両親に知られずに済むかも見当がついていた。それは、甘美で、大人びた挑戦だった。それが心地良くて、愉快なものだと知って以来、この密かな晩酌は時折行われた。
「こう言っちゃうのもちょっと気が引けるけど、こうやって二人でお酒が飲めるなら、お父さんとお母さんが忙しくて帰れないのも、ちょっと嬉しいよねえ」
「そうだなあ、こういうのは、特権だよなあ」
 僕はすっかり出来上がってしまっていた。あまり強くないのだ。
 由衣は僕に寄ってきて、身体を預けてきた。
「お兄ちゃんが大学に行っちゃったらさあ」
「うん」
「一人暮らししちゃうんだよね」
「うん、そのつもりだよ」
 とろんとした由衣の視線は、バラエティ番組を映しているテレビに向けられているが、番組に注意を向けているというよりは、習慣的にテレビに顔を向けているといった様子だ。僕も同様に、番組を観るわけでもなく、無意味に、ただ目線をテレビに向けている。
「ねえ、お兄ちゃん」
「うん?」
「寂しくなるよね」
「そうだなあ、でも、そういうものだろう」
 思考が発言に追いついていないのをぼんやりと感じた。
「それでも、私は寂しいよ」
「由衣はいつも僕にべったりだよなあ、いつまでもそんなのじゃ駄目だよ」
「そういうことは、言ってほしくないよ……」
 良い予感がしない。
「でも、駄目なものは駄目だよ、いつまでもこのままじゃあいられない」
 自制心が効かなくなってくるのがわかる、わかるが、それを抑えられるほどの理性は残っていなかった。
「それはわかってるけど、でも、私は、この先のことなんて、あんまり重要じゃないと思うの」
「どういうこと?」
 これはいけない、深入りはすべきではない。
「だって、私はお兄ちゃんのことがね、……その、あんまり将来のことを考えたくないの」
「よくわからないよ、もっとわかりやすく言ってくれよ」
 わかりやすく言っちゃだめだ。
「だからね、」
「ああ」
 やめなくちゃいけない。
「お兄ちゃんのことがね」
「うん」
 よせ。
「あのね、好きなの」
 ああ……。
「ああ……」
「お兄ちゃんとしてじゃなくてね、」
 ああ……。
「うん……」
「その、好きなの」
 ああ……。
「ああ……」
「お兄ちゃんは、私のこと、どう思ってるの」
「それは……」
 これは良くない。あるべき兄妹関係ではない。しかし、理性は追いついてくれないのだ。
 妹の、普段は気にもしなかった、少女らしい香りを突然知覚した。由衣の身体は僕の身体に必要以上に密着していた。酔いもあるだろう、しかし、それは事実として、僕の男性的な欲求を容赦なく、強烈に刺激していた。由衣のその感情に、薄々僕も勘付いていた、いや、薄々ではなく、明確に把握していた。由衣のその感情は許容すべきものではないと、僕は見て見ぬふりをして、それとなく避けていた。由衣がドジを装って、僕に直接的ではないハプニングじみた性的なアプローチをかけているのは、故意的であると、僕は知っていたのだ。けれども、それはあるべき姿ではないと、あまりにも出来過ぎた展開だとわかっていた、僕はそういった凡俗で濫造された事態が嫌いだったのだ。気味が悪いのだ、不気味だったのだ。あるべきではないと、あってはいけないと、僕の本能的な部分が拒絶していたのだ。けれども、事実として、由衣は僕に、あまりにも純粋すぎる好意を示している。アルコールの勢いがあるとはいえ、それは間違いなく本意であろう。
「ねえ、お兄ちゃん」
 僕のこの考えに反して、僕はある種の幸福感を感じていた。それは本能に従順な恋愛的な感覚であった。酩酊の最中に、これをねじ伏せるのは、不可能であった。
「お兄ちゃん……」
 いつの間にか由衣の顔が僕に向けられているのに気付いた。うっとりとしている表情だ。頬は紅潮していて、眼差しは明確さを失っているが、それでも強い意思が宿っている。
 徐々に顔が近付いてくる。僕の意識はもはや理性というものを一切手放していた。
 好きだよ、という発言が終わりまで発声される直前に、僕は強烈な違和感と、不快感と、吐き気と、恐怖を感じた。
 由衣の唇と僕の顔の間に、手を割りこませて、駆け出す。
 白い便器に由衣の手作りのカレーと胃液が跳ね、僕は途轍もない嫌悪感を感じた。僕が良しと思っていたのはこういった愚直な兄妹の関係ではない、これはあってはならない、妄想上の、気味の悪い展開だった。キモいオタクになりたくなかった。否定し、拒絶する。
 吐き出す、僕の腹に溜まっていた由衣の手作りのカレーと焼酎の混合物を力いっぱい吐き出した。
 由衣が様子を見に来た気配を感じた。
 由衣の、形容のしようが無い、困惑と悲嘆と深い絶望がごっちゃになった表情を、僕は極力視界に入れないようにしてトイレから飛び出そうとした。こういった場面では外へ駆け出すべきなのだろうが、僕は何も言わずに由衣の横を通りすぎて、自室へと歩いた。
 嘔吐の疲労感もあってか、僕はベッドに倒れて動けなかった。まだ九月の中旬だというのに、ひどく寒い。ガチガチと歯が鳴る。視界は定かではなく、脳は情報の半分も処理しきれていない。ひどいことをしてしまったな、と思った。けれど同時に、なすべき義務を果たしたような感じもする。罪悪感と、安堵感と、達成感があった。あの嫌悪感よりはよほどましであった。
 鈍重な身体を引きずって、再び便器にしがみついて胃に残っていたカレーを最後まで吐き出す。そうすると、スッと身体が軽くなるのを感じた。
 冷静さを取り戻そうと深呼吸をする。芳香剤の匂いがした。それにしても、この達成感である。してやったのだと、あの薄気味悪い好意の構図を、陳腐化した愛情を、僕は拒絶したのである。僕は次の世界に踏み出すことが出来たのだ。ハハア、ざまあみろとでも言ってやりたかった。
 由衣の声はもはや僕には届かなかった。心配気な色と、取り返しの付かないことをしてしまったのではないかという自責の念のある口調など、どうでも良いのであった。僕は喜んでベッドに潜り込み、疲労感と酔いに任せて眠ることにした。

 翌朝、由衣は何も言って来なかった。ただ、普段通りの振る舞いで、僕を起こし、朝食を作った。言うまでもないが、好意を示すような口調や仕草が見られないのだけが違いだった。実に郷愁的な事務的動作だった。
 由衣が戸締りを済ませるのを待たずに、僕はそそくさと自転車に乗って行くことにした。
 以降、由衣は僕に対して随分と淡白な態度を取るようになった。僕はほっとした。適切な状態を獲得したのだと思った。誠実な兄妹となった。
 次第にになととの距離も少しずつ遠くなった。冬になり、受験勉強に没頭せざるを得なくなったのが原因だろうと僕は考えている。それは寂しくあったが、好意とは一切関係の無い感情だった。友人との別れに近かった。『エリーゼのために』を演奏する彼女に近付けなくなったのは、純粋に悲しかった。
 一度、僕はになとに借りていたゲームを返そうとした。それは戦争ゲームだった。暴力的だった。けれど、彼女はそれを頑なに受け取ろうとしなかった。僕は釈然としなかったが、それが彼女の意思ならばと諦めることにした。せめて彼女の意思は尊重し、それに敬意を払おうという考えが浮かんでいた。
 やがて僕の進学先が決まると、両親と由衣はそれを祝福してくれた。純然な祝福であった。僕は祝福を実直に受け止め、しっかりと生きていこうと決意した。になとはもう付き合いきれないといったふうだった。合格だけは祝福するが、僕のことを見限ったような態度を取った。納得がいかなかった。僕が一体何をしたというのか、何が彼女を不快にさせているのか、さっぱりわからなかった。ある日の放課後、彼女にそれを問い詰めると、になとは、あまりこういうことは言うべきではなかったのだけれど、と前置きをしてその理由を述べてくれた。
「私は、反骨心というものが好きだ。それは必要不可欠のものだから。生きていくにも、世のためにも、何らかの影響を及ぼしてくれる、摩擦のようなものだよ。けれどね、そういうのをうかつに、愚直に発露させるのは、稚拙さと傲慢さによるものだよ。ちゃんとうまく処理しなくちゃいけない。意識的に操ってやらないといけない。むろんそれなりに難しいことだけどね……。でも、手遅れになるのはいけないよ、手遅れになってしまったらそれはもうどうしようもないからね。きっと君にも何らかの手段があっただろうに、あろう事か君はそれを最悪の、幼稚な形で引き出してしまって、それを突き付けた。許されざる事だ。けれど、起こってしまったことは仕方が無いからね、いずれ態度を改め、悔いて、考え直す日が来ると私は信じていたのだけれど――」
「待ってくれ、何を言ってるんだ、になと」
「今更そう言うのは無しだろう。要は、大人になれという事だろう。最善だとは言わないけれど。より善い手段を君が提示してくれたら良かったんだけど、そういう事もなく、行ってしまうようだから、がっかりしたんだ」
 になとはいつにも増して毅然とした口調だった。時折見せたへらへらとした態度は、鱗片も見せなかった。
「由衣ちゃんは純朴な子だよ。君の拒絶に反抗することだって無かった。あの頃から、由衣ちゃんは君に実に従順だったろう。君は傲慢にも彼女の心情を憚ること無く、胡座をかいて生きてきたようだけどね……」
 発言に一切の悪意は無かった。諦念と、軽蔑と、郷愁と、愛情であった。
「いつだったか、私は君と話したはずだよ。なんか、映画館でオタクがキモかったとか言ってさ。あの発言に偽りは無いよ。でもね、私はバットを振り回しはしなかったよ、そうしなかったんだ。それで、この笑い話を君にしたんだ。それをわかってほしかった。そうやって笑い話にするとね、心がスッとなだらかになるんだ。もちろん、君の事態と程度に差はあるかもしれないけど、対象が明確な個人じゃないだけ君よりもずっと良心的だったはずだよ。君もそうすべきだったんだ。愚直なアンチテーゼは、我々の手によって封殺されなくちゃいけない。安易な反骨心で、由衣ちゃんを拒絶すべきじゃなかったんだ」
 じゃあ僕はどうすれば良かったんだ、という反論が飛び出るところだったが、彼女はそれを閉じ込めるように続けた。
「最善があるだなんて言わないけどね、反骨心にほだされるべきじゃなかった。それは間違いない。そして、その反骨心を処分すべきと察して、手段について十分な議論と考察を重ねるべきだった。それは内省でも良かったし、私に話してくれても構わなかった。友人の相談を下らないと無碍にするわけがないだろう。時間の猶予はあったはずだ。自分の反骨心の動向と感情の機微に対してよく注意を払うべきだったんだよ」
 僕はじっと俯くことしか出来なかった。後悔の念が嵐のように頭の中をかき乱した。じゃあ、僕はどうすれば良いのか。その結論を導き出そうとしても、上手く思考は働いてくれなかった。
「こうやって説教するのは嫌いだったんだけどね……先生とか、ムカつくしさあ」になとはへらりと表情を崩した。「何はともあれ、合格おめでとう、大学は違うけど、まあ、これからも仲良くできると良いと私は思うよ」
「……僕もそう思ってるよ、そうありたいかな」
「うん」
 そうして、僕はとになとは、かつてのように帰宅したのだった。心地の良い時間だった。
 結論はまだ考え付かなかったが、ともかく、由衣に贖罪を求めない事に決めていた。形として贖罪を与えられることになろうとも、そういったみっともない乞食の真似事をするのだけはやってはいけないのだ。本当の誠実さ、善などといった、陳腐で夢想的な課題など、僕にとって何ら問題では無かった。そういった語で片付けるべき事柄では無かった。
 話をしようと思った。由衣と、話をするのだ。恐らく、何もかも手遅れで、取り返しがつかないだろうが、それでも、話をしようと思い、僕は自転車を漕いで由衣の元へ急ぐのだった。