2014/05/30

炎熱

『炎熱』 K坂ひえき

 清浄な部屋を見ると気分が悪くなるようになったのは、祖父の住む老人ホームに訪れた時からだった。病院のようなリノリウムの床や、清潔で白い壁、壁に貼られた塗り絵、広い窓から差し込む陽光を活かした明るい談話室、薄い水色のカーテン、介護用ベッドと箪笥とテレビだけが置かれた狭い部屋、それらを目にした時はめまいがして、母親に悟られないように携帯の画面を眺め続けるのでいっぱいいっぱいだった。窓に鉄格子さえあれば、立派な閉鎖病棟だ。こんな所に人間が居住するのかと思うと、恐ろしくて仕方がなかった。
 おかげで俺の部屋は散らかる一方だった。幸い、虫やカビとは無縁だったが、とにかく物が散らかっていた。それでも椅子に座ってパソコンをするには十分だったし、神経質に清掃に腐心する必要性はまったく感じられなかった。むしろそれが心地よいものに感じられた。
 部屋は大通りに面しているせいで、日中は騒音と話し声と笑い声が絶えない。窓を閉じてヤニで黄ばんだカーテンを閉めても響いてくるのだ。ゼンハイザーのヘッドホンだけが俺を助けてくれた。俺はドイツが好きになった。
 俺はよく映画を観た。身体を持った人格が物語的に動くのが好きだった。ハリウッドは嫌いだった。都合の良い美談が気に食わなかった。アメリカン・ニューシネマや、それに似通った退廃的なストーリーの作品を好んだ。俺と同じ文学部だった宮原もそれを好んだ。意気投合して、よく一晩中映画を観続けた。散らかった部屋でも、映画とバドワイザーとゴールデンバットさえあれば十分だった。
 アニメも好きだった。俺の人生はともかくとして、画面の中で少女たちが幸せそうに生きているのを眺めるのがとにかく好きだった。宮原がアニメを観るのかは知らなかった。どうにも訊いてはいけない気がした。だから俺がアニメを観る時はいつも一人だった。一人でも、画面の向こうには、俺と同じように生きており、話し、笑い、泣き、怒る人びとがいた。現実の人間となんら差異は無いように感じられた。現実だって、他者が俺と同じように本当に感性を持ち、思考しているのかなんて確かめようが無いのだから、俺は現実の人間と同じようにアニメの中の人びとも恐らく俺と同じように生きているのだと認めることにしていた。
 宮原はとにかく気の合う奴だった。両切り煙草を好むのも俺と同じだったし、意味もなく日本のビールを毛嫌いするのも俺と同じだった。好んでバドワイザーやハイネケンやギネスやエストレージャやスタロプラメンを飲んだ。こんなのは単なる西洋趣味に過ぎないと俺が自嘲した時は、趣味なら趣味で良いじゃないかと俺を諭した。俺の部屋に訪れる度に必ずバドワイザーを三瓶持ってきてくれるし、時には珍しい洋酒を持って来て二人で飲むこともあった。JTSブラウン、ヘブン・ヒル、パスポート、1906、ストリチナヤ、ネミロフ……。1906はとりわけ不味かった。ウオッカのくせに鉄の味がして、二人で不味い不味いと笑いながら飲み続けたのを覚えている。飲んだ洋酒の瓶は必ず部屋に飾るようにしていた。煙草だってそうだった。カズベック・オーバルとか、イタリアン・アニスとか、アクロポリスとか、スタッドとか、コンビニでは決して手に入らないような銘柄をしばしば持ってきてくれた。そういう時は必ず二人で味を試して、美味いだとか不味いだとか魚の餌のような味がするだとか、いろいろと勝手に感想を言い合った。客観的な評価よりも、こうして話し合った評価のほうがよっぽど信頼することができた。
 宮原との出会いはインターネットだった。宮原のハンドルネームはエイデンだった。インターネットは趣味の合う人間同士を集める性質がある。好みのものだけ閲覧し、好みでないものを自由に拒絶することができるのだから、当然だ。俺がとある掲示板でどうしようもない恨み節を垂れ流していたら、それに同情的なレスポンスを送ってきて、それ以来よくボイスチャットで話をした。初めて話した時は『俺たちに明日はない』とか『タクシードライバー』の話題だった。同じ大学に通っていて、同じ学部に在籍しているのが分かった時は大層驚いたものだった。初めて会った時は互いに古くからの親友のようにすんなりと会話出来た。
 宮原は精悍な顔立ちで女受けも良い。かと言って特定の恋人を作ろうとはしないし、軟派な態度を取ることもない。俺は女には一切モテなかったし、それでも構わないと思っていた。それでも女受けの良い奴を見ると腹立たしい気分にはなるが、宮原のような態度は快いものに感じられて仕方がなかった。恐らく俺には女性蔑視的な考えが根付いていて、女に媚びる男が嫌いで、女が媚びてくるのをあしらう人間がどうしようもなく好ましく感じられるのだろうと思った。それはそれで自己嫌悪の種だったが、大した問題ではなかった。なぜなら俺は女を問題にしたことなんて一度たりとも無いからだ。

 晩夏のある日の午後、宮原が俺の部屋に訪れた。まだ夏休みの間で、やることもなく暇を持て余していた頃だった。いつものように俺のためにバドワイザーを三瓶と宮原自身のために三瓶、鞄に入れていた。
 俺と宮原はまずベランダに出て、バドワイザーを片手に煙草を吸った。太陽はまだ高い。エアコンの室外機の上に置いた灰皿代わりのバケツは吸い殻でいっぱいで、内側は茶色いヤニがこびりついていた。アパレルショップやスーパーマーケットや雑貨屋の並んだ大通りをたくさんの人々がせわしなく通り過ぎて行く様子を、酒を片手に眺めるのは気分が良かった。
「このベランダにさ、機銃でも設置して、ここから乱射できたら気分が良いんだろうなあ」
 俺は笑いながら頷いた。想像するだけで気分がすっとした。
「火炎放射器とかあると良いね。こう、いつも通りに歩いていると突然火が降ってきて、何もわからないのに助けを求めるんだ。それでたまたま教授が通りかかってて、焼け死んでしまうから受講者全員に単位がおりてきてさ」
「そりゃ最高に良いね。ああ、でも、六階からじゃ届かないだろうし、火炎瓶を投げたほうが良いかな」
「確かに」
 日が暮れて人通りが少なくなるまでは、とにかく自分たちの気が晴れるような話をした。気に食わない連中を殺したり、人類が滅亡したり、そういうくだらないことばかり考えていた。その後は酒を飲みながら『夏の終止符』と『セブンス・コンチネント』を観て、夜明け前に煙たい部屋の中で寝た。

 目が覚めると日が高かった。時計を見るのも億劫だった。窓を閉め切っていたせいで、部屋は煙たいままだった。エアコンの室外機がごうごうと音を立てているのが少しだけ聞こえた。宮原は寝ている間に帰ったようだった。四時から映画サークルの集まりがあるはずだった。ゴールデンバットを吸って、トーストにマーガリンを塗って食べ、もう一本バットを吸うと四時を過ぎているのに気付いた。ジーンズ地のワークキャップをかぶって部屋を出た。
 外は甘く腐った匂いでいっぱいだった。それに、時折混じる気取った香水の匂い。いかにも燃費の良さげな軽自動車がせわしなく公道を滑りまわっていた。俺が煙草を吸うと通行人は迷惑そうな視線を向けたが、それとは関係なく煙が肺を充足させる感覚は心地良かった。スターバックスの女神がおれをじっと睨んでいた。
 レンタルビデオを返して、適当な映画を九本選んで、コンビニでコカ・コーラを買って飲んだ。大学に行って、部室棟に入って映画サークルのドアの前に立ったところで、唐突に煙草が吸いたくなって、部室棟の傍で煙草を吸った。部室棟からサークルの連中が仲睦まじく出てくるのが見えた。近藤は石島の腰に手を回して、下品な笑みを浮かべていた。石島は綺麗に揃った前髪をかき分けながら、照れくさそうなふりをして近藤との距離をわずかに詰めた。
 宮原からメールが届いていた。暇だから部屋で待ってるとのことだった。
 宮原は俺の部屋でゴロワーズを吸っていた。俺は部屋の鍵を掛けないから宮原が勝手に部屋に入っていても何もおかしくはない。オートロックの番号だって知っている。
「金が無いからさ、バイトしようと思ったんだ」
 宮原はそう言った。
「バイトなんてクソくらえだろ」
「百均で履歴書買ったんだけどさ、なんか何十枚も入ってて、こんなに応募しないだろって思いながらクソ真面目に履歴書を書いてたんだ。そしたらすげえ腹立ってきたからさ、今から燃やそうか」
「いいね」
 虫除けスプレーとライターを使って火炎放射器を作って履歴書の束を燃やした。履歴書の束炎で煙草に火をつけて、灰皿代わりのバケツに放り込んだ。その様子を見て、二人で笑いあった。ウイスキーをかけると、青く細い炎を立てて燃え上がった。
「やっぱ、火は最高だなあ」
「ああ、炎は最高だ。なんでも燃やしてしまうんだもんな」
「このまま大学も燃やしたいよなあ、あんなもんマジで行く必要無いもんな、ただの就活予備校だし、授業出て適当にレポート書いてりゃ単位がもらえるんだもんな、何も価値がないんだもんな。クソ真面目にお勉強してる連中だって、ただの頭でっかちのクソインテリで、実際にはなんの役にも立たねえろくでなしばっかだ」
 俺と宮原は小さい炎の熱をはっきりと感じながら、何本も煙草を吸った。火が弱まる度に、煙草の箱とか、大学の成績表とか、語学のテキストとか、水道料金の請求書なんかを燃やして、火が潰えないようにした。俺の部屋にはなんていらない物が多いのだろうと思って、どんどん捨てた。熱で頬が火照って、とにかく愉快で仕方なかった。この炎なら俺を抑圧するものを全部消し炭にしてくれると信じた。
 その時はウイスキーばかり飲んでいたから、後先を考えずになんでも捨てた。保険証とか、学生証とか、勝手に俺を規定する厄介なものを片っ端から燃やした。黒い煙がもくもくとベランダから立ち上った。きっと苦情が来るだろうと思ったが、大した問題には感じられなかった。煙草の煙と、この煙に大差なんて無いように思えた。

   *

 いつの間にか眠っていた。まだ朝の九時だった。宮原はキッチンで朝食を作っていた。
「ベーコンとスクランブルエッグは食べるか?」
「悪いな、頼むよ」
 トーストとベーコンとスクランブルエッグを食べた。朝に飲むバドワイザーは格別だった。床に寝転がってバットを吸っていると、宮原は用事があるからと言って出て行った。
 俺はバドワイザーの瓶を片手に自転車で町中をゆっくり走り回った。何度も車に轢かれそうになった。たばこ屋でバットのカートンを買って、吹かしながら川沿いの道を下った。途中で何軒もコンビニを見かけた。小洒落たカフェや、小奇麗なオフィスの前を何軒も通り過ぎた。その度に気分が悪くなって、川を流れる水を眺めた。これだけの量の水が絶え間なく流れ続けているのは、驚くべきことだと思った。川からは甘く腐った香りがした。太陽にやられてぬるくなっているものだと思い込んでいたが、手で触れてみると驚くほど冷たかった。腐った匂いは俺の気のせいだった。吸いかけのバットを川に捨てると、気分が晴れた。ついでにバドワイザーの瓶も投げ捨てた。砕けた破片が流されていくのをじっと見ていた。
 部屋に帰ってアニメを観てスマートフォンをいじっているうちに日が暮れた。夏休みは暇で仕方がなかった。忙しいのは嫌いだが、まったくの暇のほうが嫌いだった。電話がかかってきた。映画サークルの石島からだった。近藤の家で飲み会をするから、参加して欲しいと言われた。昨日の集まりをスッポ抜かしたから決まりが悪かったが、退屈よりは良いだろうと思って参加する旨を伝えた。石島は甘ったるい声で喜んだ。
 近藤の部屋に行くと、サークルの連中が数人集まってピザをつまみながら酒を飲んでいた。ビールの箱とウイスキーの入ったレジ袋を床に置くと、連中は喜んだ。俺はエビスの缶を開けて飲んだ。安っぽいドミノピザを食べながら、集会に参加しなかった理由を弁明や、次に撮る予定の映画の話をするなどして、へらへらと口を歪ませた。煙草を吸おうと思ったが、サークルでは喫煙者は俺だけだから、空になったエビスの缶を片手にベランダでバットを吸った。バットはロットによって味が異なるのだが、このバットはどろりとした甘さだった。ガラスの向こうで騒ぎ続ける連中との温度差が心地良かった。この感覚が好きだった。会話よりも、煙草のほうがずっと楽しいのに気付いた。酒と煙で、精神が溶け出るような感覚を楽しんだ。
 石島は映画サークルで唯一の女性だった。正確には女性は三人いるが、頻繁に顔を出すのは石島だけだ。冴えない男だらけのこのサークルで、石島はあたかも姫のように扱われた。ソーシャルサービスのアイコンはことごとく手書きのアニメ絵だったし、よく流行りのアニメの話題を垂れ流して、アニメへの理解を示していた。あの女の子がかわいいだとか、セーラー服がかわいいだとか、そういったことばかり発言していた。石島が口を開けば誰もが頷くし、ひとたび機嫌を損ねたら総出で下手に出てご機嫌取りをした。俺はうんざりだった。女が女であるだけで価値を認められるようなコミュニティに、何一つ価値を見いだすことは出来なかった。それでも惰性で、いや恐らくは僅かな居場所を失うのを恐れて、サークルを脱退することはなかった。
 部屋に戻ると、石島が煙草臭いと笑いながら俺に文句をつけた。どいつもこいつも禁煙しろと口を揃えて俺に説教をした。眩暈がして、鼻腔いっぱいに腐った甘い匂いが充満した。エビスの缶から、吸い殻の残り火の煙が薄く昇っていた。チカチカと視界の隅が弾けて、腹の底がマグマのように熱くなった。
 俺は空になる前のウイスキーの瓶で近藤の頭を殴った。派手に瓶が飛び散って、液体がカーペットを濡らした。次に、割れた瓶を石島に投げつけた。石島は顔をかばって両腕を上げた。瓶はそれに命中して、鈍い音を立てた。石島の化粧だらけの顔に傷がついた。残った連中は俺を取り押さえようと飛びかかったが、俺は慌てて逃げて、部屋から飛び出た。扉の向こうから怒号と石島の心配をする声が聞こえた。誰も追いかけて来ないようだったから、俺はアパートの駐輪場で悠々とバットに火をつけて、指が熱くなるまで吸いきってから自転車で帰った。俺はまったくの一人になったような気分だったし、誰よりも孤高で最高にクールになれたようだった。
 自分のアパートに戻って階段を上っていると、突然自分の行為が恐ろしくなって、手すりから身を乗り出して嘔吐した。顎から胃液の混ざった唾液が垂れた。胃が空っぽになるまで吐き尽くすと、少しだけ気分が楽になった。部屋では宮原がソファに身を投げだしたままゴロワーズを吸っていた。
「大丈夫か?」
「ああ、ああ、大丈夫、大丈夫だ。俺はまだ大丈夫だ」
 頭を振って意識を明瞭に保とうとした。
「サークルか?」
「ああ」
「あんなもの、やめりゃあいいのに」
「そうもいかない、もしサークルを辞めたら、俺はずっと部屋に引きこもってパソコンにかじりつくか、ビールを飲んでそこら中をふらつきまわるしかなくなるだろう。それが何よりも怖いんだ」
 宮原はバドワイザーをあおって、冷蔵庫からもう一瓶取り出して俺に渡した。俺は一息で半分飲んで、大きく息を吐いた。気分が良かった。
「なあ、こんな話を知ってるか、天国じゃ誰もが海の話をするんだって」
「『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』だろ」
「そうだ。……ここからずっと南に行った所にさ、理想郷だかなんだか知らないけど、とにかく最高の場所があるらしい。そこには海が一面に広がってて、小さな町があって、その奥には小高い山がいくつもあって……とにかく最高の所らしいんだ。前々から噂には聞いていたけど、どうやら本当にあるらしいんだ。今からそこへ行かないか。きっとこんな町よりはずっと良いところだ。映画みたいにクールに町を飛び出してさ、夢見る土地へと向かうんだ。どうだ、最高にイカしてるだろ」
「マジで言ってんの?」
「マジだよ」
「そりゃ最高だ」
 俺は宮原のバイクの後ろに乗って、真夜中の町中を走り抜けた。とにかく南へ。
「宮原ァ、南だ、南!」
「このクソから逃げ出そう、エルドラドへ行くんだ」
 俺は後部座席で両腕を横に広げた。まるで『モーターサイクル・ダイアリーズ』みたいだった。俺は大声で叫んだ。最高の気分だった。
 ことごとく信号を無視して、反対車線にはみ出ながら前を走る自動車を追い抜いた。部屋の鍵とか、スマートフォンなんかがポケットから落ちて、瞬く間にはるか遠方へ行ってしまった。
「このままどっかのバーにバイクを停めるんだ、白い煙を立てながら、タイヤの擦れる音を鳴らしてさ。そしたら、きっと誰もが俺たちに注目するんだ。あのイカれた連中は一体何者だって。俺たちは何事も無いかのようにクールに煙草を吹かす。そうすりゃ俺たちはモテモテだ。女に媚びへつらう必要なんてなくったって、女のほうから俺たちに寄ってくるんだ。俺たちは女を支配して、女たちは支配されることに喜びを覚えるんだ」
 宮原に声は届いていないようだった。
「きっとさ、その理想郷に近付くほど、町は減っていくんだ。草原ばかりになって、その中を一本の道がずうっと貫いているんだ。次第に草原は荒野になって、ひたすら突っ切るんだ。夜になったら、街灯なんてあるわけないから、バイクを停めて野うさぎでも捕まえて、ドラッグを吸いながらうさぎを捌いて食って、野宿をする。日が昇る頃にはまたバイクに乗っている……そうして、理想郷にたどり着く……俺たちの望んだ、幻想の世界だ……そこで俺たちはようやく走るのをやめて、砂浜に座り込んで、テキーラを飲みながら……そう、銘柄はエル・トロが良い……海を眺めるんだ。天国でも話が出来るようにさ……」
 バイクはひたすらに走り続けた。橙色と紫色が強烈にねじれた朝焼けが綺麗だった。ターボライターでバットに火をつけて一口吸い、宮原にも吸わせてやった。二日は走り続けたと思う。太陽の動きなんてどうでもよかった、ただただ俺たちが走っていることだけが重要に感じられた。
 古びたレストランに寄った。泥水みたいなミネストローネと硬いパンを食べた。腐った味がした。店を出た後に吐いた。俺と宮原は吐瀉物を見て、料理の文句を言い合って笑った。
 日が高くなると、暑くて暑くて仕方がなかった。どれだけ速度を出しても、風は一向に身体を涼ませてはくれなかった。甘く腐った匂いがあたり一面に広がっていた。太陽は腐った黄色で、俺たちの顔を灼き続けた。宮原やバイクの輪郭を縁取るように黄色く照らされて、喉が痛むほど乾いて、風で目が乾いて、光は際限なく強くなった。輪郭の光は徐々にその幅を広げて、眩しくて仕方がなかったから目を閉じた。瞼を通しても、その強烈な黄色は感じられ続けた。エンジンの振動が急に強くなったように感じられて、俺は振り落とされそうになった。ぐらぐらと身体が振り回されて、恐ろしくなったが、愉快だったから揺らされるがままにした。
「宮原! こんなに黄色いのは初めてだよ! 体温が溶けていって、黄色と混じり合ってるような感覚だ! 愉快だよ、サイコーにゴキゲンだ! ウハハ、宮原ぁ、聞こえてるか、宮原ぁ!」
 宮原は何も言わずに速度を上げた。グイと身体が後ろに引っ張られて、僕ははっきりと乱れるのを感じた。甘く、腐った匂いでいっぱいだった。

    *

 夜だった。星が光っていて、その下で宮原と焚き火を囲んでいた。口にはビーフジャーキーの味が少しだけ残っていた。冷えたバドワイザーを流し込むと、味はさっぱり消えた。
「ガソリンはまだまだいっぱいある。このままどこへだって行ける。それだけは確かだ」
 宮原は小さな枝を火に投げ入れる様子をじっと見つめながら、僕に語りかけた。
「でもね、本当は、僕はちょっと怯えているんだ。僕達の目的地ってのは、もしかしたら空想の産物で、僕らが勝手に思い描いてるだけの場所なのかもしれない。少しでもそう疑ってしまうと、どうしようもなく怖くなる……」
 宮原が弱音を吐くところを見るのは初めてだった。俺は慌てて宮原を諭そうと思った。
「宮原、それは違うだろ、そんなの、アメリカへ行ったことのない奴がアメリカが本当に実在するか疑ってしまうのとおんなじだろ、もしかしたらテレビで流れているのは全部嘘で、誰かが捏造して自分を騙してるんじゃないかって疑心暗鬼になるのと同じだろ、これほど馬鹿馬鹿しい妄想が他にあるかよ。俺たちに必要なのはそんな馬鹿げた妄想じゃない。酒と、肉と、煙草と、バイクと、理想の地、それくらいで十分なんだ。そうだろ? だって、俺たちは生きているんだから。俺たちに明日はない、なんてことは言わんけどさ、明日も明後日もその先のこともずっとずっと心配し続けるくらいなら、何の保証がなくとも旅をするほうがずっと楽しいじゃないか。全部だめになっちまったら、タンクローリーに突っ込んで派手に死ねばいいんだから……。社会ってやつはさ、未来を約束してくれるんだ。生きていける保証をしてくれるんだ。だから終末感に浸ることもないし、とりあえず生きていけるんだ。延命治療とおんなじだ。生きていること自体に価値を感じるのならそれは素晴らしいものに感じられるけど、そうじゃない奴らにとっちゃ生き殺しの拷問だよ……だから、だからこれで良かったんだ。俺たちが価値を感じるのは生きていることそのものじゃない、生きて、飲酒と喫煙をしまくることなんだ。何も間違えちゃいない。俺は社会に屈することなく、自分の人生をまっとうしているんだ。これがもし神に赦されないことだったら、そもそもこんなこと出来るわけがないんだ。神が赦さないものはこの世に存在しないから。だから、出来るということは神が赦しているということと同じなんだ。そうに違いない……」
 宮原に語りかけているのか、うわ言を口から漏らしているだけなのか、次第に分からなくなっていった。俺は寂しい気分だった。宮原は焚き火を見つめているだけで、何も言わなかった。その内にうとうとしだしたから、地面に転がって寝た。薪の爆ぜる音が心地良かった。

   *

 目を覚ますと、部屋がひどく煙たくて不快な気分になった。窓を開けて、バットを吸った。パソコンを立ち上げてツイッターを開くと、サークルの連中の他愛もない独り言がたくさん表示された。俺は気分が悪くなって、2ちゃんねるを開いた。手当たり次第にスレッドを読んだ。怨嗟が渦巻いていた。インターネットは怨嗟を増幅させる装置だった。どこにも居場所はないな、と思った。もう一度ツイッターを開いて、鍵をかけた小規模のアカウントに切り替えて、宮原がいないか確かめた。映画とゲームが趣味のサラリーマンが夜通し新作の戦略シミュレーションゲームの話をしているだけだった。タイムラインを追うのが面倒になって、俺は何をしようかと考えた。煙草を吸いながら映画を観るのも良いし、コンビニでビールを買って飲みながら町中を歩き回るのも良い。それくらいしかやることがないのだが、どれも億劫で仕方がなかった。カップ麺にお湯を注いでから食べて、残り汁をトイレに捨てた。
 ジグザグのローラーを使って脱法ハーブを巻いて、煙を四度だけ肺に入れると、徐々に動悸がはっきりと感じられるようになって、身体の中心が痺れて、神経が震えた。目を開けていても何も良いことは無いから、目を閉じて、ゆったりと椅子にもたれた。
 スマートフォンが鳴った。映画サークルのメーリングリストが届いていた。オンラインストレージに飲み会の写真をアップロードしたという旨のメールだった。愉快そうな文面だった。オンラインストレージを開いてみると、サークルの面々が近藤の部屋で楽しげに肩を組んで笑っている集合写真があった。そこに俺はいなかった。石島の肩に手を回している男達が妙に腹立たしかったから、もみ消した後の脱法ハーブをシケモクの山からつまみ上げて、火をつけて煙を吸った。
 頭がブレて、たまに鐘の音が聞こえた。これはヤバい状態だと思ったが、もう手の施しようがないのはわかっていたから、とりあえず水道水を飲んだ。水が美味しかった。唾液だって美味しかった。
「飲み会なんてクソよりも俺のほうがずっと楽しいんぞ! わかってんのかクソ共! オイ!」
 馬鹿馬鹿しいことがしたかったから、声を張り上げた。虚しかった。
 ツイッターを開いた途端、インターホンが鳴った。警察かと思ったが、訪問者は宮原だった。宮原は俺の顔を見て大声で笑った。やっぱりこいつは良い奴だと再確認した。
 宮原は胸ポケットからゴロワーズを取り出して吸った。煙を吐き出している様子を見ているると、突然胸が苦しくなって、涙ぐんでしまった。
「なあ、どうしてこうなっちまったんだろうなあ、宮原、わかるか?」
「おいおい、いきなりどうしたんだよ」
「わかってんだよ、自分でもさ、どうしようもないって。それなのに諦めきれない……幼い憧憬が心に焼き付いて離れないんだ……そしてそれは甘く腐った匂いを放ち続ける……どれだけ強く身体を洗っても、どれだけ香水を重ねても、その匂いは確かにあるんだ……」
「やめろ、もう話すな、お前は疲れてるんだ」
 宮原は俺の肩を強く叩いた。
 俺は悲しくて仕方がなかった。
「俺は子どもなんだよ、20メーターの火柱を噴く火炎放射器に憧れて、ライターと虫除けスプレーでちっちゃな火を立てて遊んでいる子どもと何一つ変わりやしないんだ……いつまでも暴動とか革命とか強盗とか言って、勝手に妄想を膨らまして、そんでどうしようもないいたずらを心慰みにしてるだけだよ……すまんね、宮原。こんなことに付き合わせてしまって」
「それでいいのかよ、自分でも焼き付いて離れないって言ってただろ」
「お前は、疑い始めると怖くなるって言ったろ……お前がそう言ってしまったのは、もう限界だってわかってたからなんだ……きっと、もうこのまま怯えてしまわぬように生きていく……生きていられたらだけどさ……」
 宮原はもう俺を見ていなかった。ぶつぶつと何かを言っているようだった。
 身体の内部が暴れ回るような感覚がして、言葉を聞き取ろうとするのでいっぱいいっぱいだったから、俺は宮原の声を無視することしか出来なかった。
「でもさ、俺は妄想だからって見下したりしないぜ。だって、虚構なんてどうだっていいじゃないか……俺はお前と酒を飲んで映画を観たし、火炎放射器で人を燃やそうとか、理想郷へ行こうなんて話をしたのだって覚えてる。それでいいんだ、あんまり真剣になったって仕方がないからさ」
 頭の中で鐘の音が鳴る頻度が高くなっていく。話の連続性が途切れていた。
「それにさ、インターネットってのは、ほら、全部情報だから……現実について話をしても、あくまで情報に過ぎないんだ……情報は形にはならないけど、それでも現実は確かに存在してる……あそこにはそういう心地よさと虚しさが同居しているんだ。しかも匿名なんだぜ。顔のない世界だから、俺はなんだって言えた……最高だよなあ、インターネットってやつはさあ……やめらんねーもん……」
 意識が暗くなって、俺は小汚い部屋に囲まれて眠りに落ちた。頭の中には形になれない思考が充満していて、睡眠というよりは昏睡するような感覚だった。視界の隅に、パソコンのモニターのぼんやりとした発光が妙に印象強く映った。

   *

 俺は映画を観ようと思った。退廃的な映画や暴力的な映画を観て、宮原と話をしたかった。レンタルショップで『ベルフラワー』と『マッドマックス』と『ミツバチのささやき』を借りた。外はすっかり肌寒くなっていた。生暖かい大気が少しだけ愛おしかった。
「そっか、もう九月も終わるんだもんなあ、通りで冷えるわけだ……・。ああ、来週には大学が始まるのか。ダルいよなあ。まあ、映画を観る本数が少しだけ減って、一日中酒が飲めなくなって、きっと代わりに温かいコーヒーを飲むようになるんだろうな。それで、時々ベランダに出て、寒風に身体を縮こまらせながら煙草を吸って、道行く人達を焼き殺して暖を取りたいなんて妄想するんだ。なあ、宮原。まだまだ理想郷は遠いぜ。だから、インターネットでもやって、下らない話で盛り上がることにしよう。映画みたくクールに町を出て行くことが出来なくても、それくらいなら俺にだって出来るからさ」