2013/09/01

妹がお兄ちゃん大好きすぎて困っているのですが

『妹がお兄ちゃん大好きすぎて困っているのですが』

「オタクってキモいよね」
 有島になとはそう言った。
「はあ?」僕は思わず間抜けた声を上げた。「どうしたんだよ、いきなり」
 線路沿いの帰宅路を並んで歩く。線路と道路の間には広々とした土地に砂利が敷き詰められ、駐車場として利用されていた。高校と駅を繋ぐこの道は、いつも学生の姿が見られる。
 になとはいかにも真面目そうな表情を作って僕に話しかける。
「いや、オタクってキモいよなあって思ってさあ」
「になとだってアニメ好きじゃないか」
「まあそうだけど」
「なんだよそれ、同族嫌悪?」
「いやそうやって切り捨てちゃうのは簡単だけどね……」
 彼女は苦笑した。どうも彼女の発言の意図が掴めない。
「例えばさあ、エヴァの新作とかまどマギの映画を劇場まで観に行くじゃん? するとそこにはオタクがいっぱいいてさ、みんな開場を待ちながらわいわい談笑してるんだよね。その光景を見てるとさ、オタク死ね! って叫びたくなるんだよね。オタクはキモいから死ねって叫びながら、バットかなんかでオタクを蹴散らしたくなるんだよ。もちろんそんな事は出来ないけど……」
 になとはバットを頭に振り下ろす真似をした。肩の下までふわりと伸びた髪が揺れる。
「ワハハ、なんだそれ」
「それで、普通に映画観て満足して帰るの」
「オタクのくせに群れるな、って事?」
「うーん、別にそういうわけじゃないんだけど……」
「気持ちは分からなくも無いけどな」
「だってさあ、チビで天パでメガネじゃん。どこ見てるのか分かんないし。そのくせしていっぱしの文化人気取りでアニメ観て漫画読んでゲームしてるんだよ。どう考えても気持ち悪いでしょ」
「随分偏ったイメージだな……今時、オタクなんてそんなに珍しくもないだろ」
「ああ、そうだね。最近オタクも一般化したよね」
「インターネットだとライト層とかヌルオタなんて蔑称でよく馬鹿にされてるけどさ」
「それもそれでキモいけどね」
「じゃあなんだ、DQNとかギャルみたいなイケイケ系が好みなのか?」
「はは、そんなわけないよ」
「なんだよ、批判ばっかだな。女って批判ばかりでろくに現実的な意見を出さないんだよな」
「自分以外が苦手なのかもね……まあそんなことよりさ、妹の由衣ちゃんはどう? 風邪は治った?」
 急な話題転換に少し戸惑う。少し気分を害してしまったのかもしれない。
「ああ、由衣ならもう良くなったよ」
「よかった。由衣ちゃんに漫画借りててさ、読み終わったから返そうと思ってたんだけど、風邪で寝込んじゃってる時にお邪魔するのも悪いと思ってさ」
 僕の妹の由衣はになとと仲が良い。由衣はになとに憧れに近い友情を感じているように見える。年齢差のある関係は大方そういうものなのかもしれない。
 僕は足元の石ころを蹴飛ばした。石ころは僕達が歩いている歩道から飛び出して、フェンスをすり抜けて駐車場の敷石の中に紛れ込んだ。
 駅が近付いてきた。傾いた夕日が架線鉄柱の陰を切り抜いている。改札を抜け、雑然とした連絡路を通ってホームで電車を待った。

 地元の駅で電車を下りてになとと別れ、帰宅する。
「あっ、お兄ちゃん、おかえり」
 エプロン姿の由衣が駆け寄ってくる。僕は返事をしながら鞄を手渡す。由衣はお節介焼きだ。僕によく懐いて、なにかと献身的に尽くしてくれる。共働きで帰りの遅い両親の代わりに家事を請け負っている。学業と家事を両立させるなど彼女の苦労が偲ばれるが、彼女はむしろそれに充足を感じていると言っていた。世間的にはあまり良い家庭環境と言えないが、当人がそれで良いと思っているなら変化を起こす必要は無い。
「お兄ちゃん、勉強はどう?」
「母さんみたいな事を訊くなあ」
「だってお兄ちゃん受験生でしょ? ちゃんと勉強しなきゃだめだよ」
「そうだけどさ」
 お節介焼きである。
「でも、勉強しないのも含めて、お兄ちゃんがそれで良いって思うなら良いんじゃないかな」
「そうやって圧力掛けるのやめろよ」
「圧力じゃないよ、本心だよお」
 由衣はにこにこ笑いながら僕のブレザーを受け取ってハンガーに掛けた。
「そういう由衣はどうなんだよ。高校受験だろ?」
「私は大丈夫だよ。お兄ちゃんと同じところ行くもん」
 僕はソファに座り、ぼうっとテレビを眺めた。由衣は台所で夕飯の用意を再開した。
「僕のところなんて大した学校じゃないだろ」
「いいの、私が行きたいんだから」
 僕はうんざりした気分になった。由衣は勉強が出来る。もっと上の高校を狙えるはずだ。恐らく僕が通っているから、という理由なのだろうが、由衣が高校に上がる頃には僕はもう卒業しているし、それは理由として正当ではない。けれど、彼女が行きたいと言うのなら、それを止める道理は無いだろう。
 由衣の作った夕飯を食し、自室で雑誌を読んで時間を潰し、風呂に入る。
 湯船に浸かって、帰り道にになとが言っていた事を思い出す。彼女の意見は少々極端ではあるが、しかし僕の心のどこかに間違いなく存在していた違和感、不快感を確実に言い表していた。確かに、キモい奴はキモいのである。それが一般的に同族であろうとも、その嫌悪感をもみ消すことはできない。それほど僕の感情は都合よく捻じ曲げられるものではない。何とかしてこの問題を解消出来たら良いのだが。そう簡単に住み分けが出来るような事ではない。事実として、相容れたく無い相手は存在するし、それを「嫌い」のごく個人的な感情に依拠したラベル以外で分類するのは困難である。だからこそ、気持ちが悪い。まるで自分の身体に強姦魔の親の血が流れているような、それは間違いなく自分の存在の一部に属するものであるが、その存在の起源と処遇はどうすることもできない、そういった類の嫌悪感を感じるのである。唯一、それを処理するには、許容することしかないのである。圧倒的な生理的嫌悪を叩き伏せて許容してやるしかない。しかしそれは自分の身体に強姦魔の血が流れていることを認める行為である。許容が感情と一致するのはありえない。
 そういった思考を積み重ねていると、突如、風呂場のドアが開いた。
 由衣が立っていた。少女期特有の華奢な肉体に、白いバスタオルを巻きつけている。胸は未発達で、隆起らしい隆起は見られない。僕は目を逸らす。
「お、お兄ちゃんっ?」
 由衣は顔を真っ赤にして動きを止める。状況がうまく把握できていないように見える。
 僕は極力冷静を保って、声が上ずらないように扉を閉めて風呂場から出て行くように告げた。
「ごめんね、お兄ちゃん、気付かなかったの、悪気があったとかそういうわけじゃないの!」
 謝罪の言葉を述べて、その場を動こうとしない。
「いいから、はやく出て行って。また風邪引くよ」
 少し苛立ちが口調に滲んだかもしれない。それを察してか、由衣は慌てて扉を閉めて風呂場から出て行った。
 静けさを取り戻した浴槽で、僕は湯の小さな波をじっと見つめた。感情が落ち着いてくる。冷静にならなくちゃいけない。今のような失態は、犯すべきではない。
 由衣のこういうヘマは、しばしば見られる行為だった。僕の着替えに遭遇したり、先ほどのように入浴中に誤って遭遇したり、そういったのは何度か経験していた。恐らく、由衣はこういうドジを犯しがちな性質を持っているのだろうと、僕はそう納得するようにしていた。
 リビングに戻ると、由衣はソファの上で体操座りをして、恥ずかしそうに俯いていた。
「由衣、風呂に入りなよ」
「うん、ごめんね、お兄ちゃん……」
 とぼとぼと浴場へ歩く由衣の背中を見送った。

 朝、僕はいつも由衣に起こされる。目覚まし時計いらずだ。
 由衣が用意した朝食を食べ、登校の準備をする。簡単ながらも、バランスの取れた朝食だった。
 一緒に家を出て、由衣が玄関の鍵を閉めるのを待つ。
 ゴミ出しをしている隣家のおばさんと目が合う。
「おはようございます」
「あら、おはよう。今日も仲が良いのねえ」
 由衣が駆け寄ってくる。
「えへへ、おはようございます、今時の兄妹なんてこういうものですよお」
 由衣は腕を絡めて笑顔で挨拶をする。
「あらそうなの? 仲睦まじいのは良い事ねえ……」
「由衣、そろそろ行かないと。じゃあ、これで」
 自転車で駅へ向かう。中学校は家に近いので、由衣は歩きだ。
 僕と由衣の関係は、確かに一般的な兄妹像と比べると相当に友好的である。異常だ。むろん僕はそれに不満を抱いているわけではない。何ら不都合は無いのだ。けれども、腹の底にもやもやしたものが渦巻いているのは否定しようがなかった。

 放課後、になとは音楽室でピアノを弾いていた。彼女は終礼と共にすぐさま帰る連中を、こういうのはおよそ意思疎通に問題を抱えている人間だが、ぼんやりと眺めた後、いきなりピアノが弾きたいと言い出した。普段から用事のない僕はそれに同行した。彼女にピアノを弾く趣味があるとは知らなかったが、吹奏楽部の練習が休みの曜日を知った上で、空いた音楽室を使おうというのだから、恐らく何度か音楽室に通っていたのだと思う。
 僕は椅子に座って映画雑誌を読んでいた。
「この曲、なんて名前だったっけ……」僕はになとに訊いた。
「『コロンバインのために』」
「えっ?」
「冗談よ。『エリーゼのために』だよ」
 ああ、そうか。そういう名前だった気がする。
 彼女は心地良さそうに身体をゆったりと揺らしながらピアノを演奏し続ける。
「ベートヴェン、好きなの?」
「この曲が好きなの」
「そうなんだ」
 音楽室が斜陽に満たされている。彼女は橙色のきらびやかな反射の中で、穏やかに『エリーゼのために』を弾き続けた。僕はその音色に哀愁のある切実さを感じた。彼女はエリーゼへの叶いようのない愛情に愛を込めているようだった。
「ねえ」
 彼女は演奏を止めた。
「うん?」
「どういうふうに感じた?」
「この曲が?」
「そう」
「そうだな……言葉にするのは難しいけれど、愛情と郷愁、というか、なんだろうね」
「こっ恥ずかしいこと言うんだね」
「なんだよ、人に尋ねておいて」
「でも、まあ、だいたい合ってるかな……」
 になとは再び演奏を始める。
「私はね、ベートーヴェンがエリーゼにどんな感情を抱いていて、それがどういう結末になったのかなんて興味無いの。今更そんなものに価値があるとは思えない」
 よくわからない。それならば何故彼女はこの曲を好きなのか。
 しかしになとはこれ以上何も語らず、ただピアノを弾き続けた。本来の演奏時間より明らかに長い。同じメロディを延々と繰り返している。音楽に詳しくない僕でもわかった。
 二十分ほど弾き続けただろうか、彼女は唐突に演奏を中断して僕に言った。
「やっぱさあ、この曲にはFPSが似合うよね」
「はあ?」
「人を撃ちたくなってきたなあ。そろそろ帰ろう」
 彼女がそういった暴力的なゲームを好んでいるのは知っていたが、あまりに突拍子もない発言だった。僕は彼女の意図を何一つ把握できないままだった。有島になとは孤高であると、ふと思った。

 家に帰ると妹が待っている。
 今日は父母共に帰れないという。僕らは由衣の作ったカレーライスを食べた。
 ソファに体重を預けてバラエティ番組を眺めていると、洗い物を済ませた由衣が台所から芋焼酎を持ち出してきた。
「ねえお兄ちゃん、これ、飲んじゃおっか」
 かつて、好奇心でこっそりと二人で親の酒を飲んだことがあった。保管場所も知っていたし、どの程度の量なら両親に知られずに済むかも見当がついていた。それは、甘美で、大人びた挑戦だった。それが心地良くて、愉快なものだと知って以来、この密かな晩酌は時折行われた。
「こう言っちゃうのもちょっと気が引けるけど、こうやって二人でお酒が飲めるなら、お父さんとお母さんが忙しくて帰れないのも、ちょっと嬉しいよねえ」
「そうだなあ、こういうのは、特権だよなあ」
 僕はすっかり出来上がってしまっていた。あまり強くないのだ。
 由衣は僕に寄ってきて、身体を預けてきた。
「お兄ちゃんが大学に行っちゃったらさあ」
「うん」
「一人暮らししちゃうんだよね」
「うん、そのつもりだよ」
 とろんとした由衣の視線は、バラエティ番組を映しているテレビに向けられているが、番組に注意を向けているというよりは、習慣的にテレビに顔を向けているといった様子だ。僕も同様に、番組を観るわけでもなく、無意味に、ただ目線をテレビに向けている。
「ねえ、お兄ちゃん」
「うん?」
「寂しくなるよね」
「そうだなあ、でも、そういうものだろう」
 思考が発言に追いついていないのをぼんやりと感じた。
「それでも、私は寂しいよ」
「由衣はいつも僕にべったりだよなあ、いつまでもそんなのじゃ駄目だよ」
「そういうことは、言ってほしくないよ……」
 良い予感がしない。
「でも、駄目なものは駄目だよ、いつまでもこのままじゃあいられない」
 自制心が効かなくなってくるのがわかる、わかるが、それを抑えられるほどの理性は残っていなかった。
「それはわかってるけど、でも、私は、この先のことなんて、あんまり重要じゃないと思うの」
「どういうこと?」
 これはいけない、深入りはすべきではない。
「だって、私はお兄ちゃんのことがね、……その、あんまり将来のことを考えたくないの」
「よくわからないよ、もっとわかりやすく言ってくれよ」
 わかりやすく言っちゃだめだ。
「だからね、」
「ああ」
 やめなくちゃいけない。
「お兄ちゃんのことがね」
「うん」
 よせ。
「あのね、好きなの」
 ああ……。
「ああ……」
「お兄ちゃんとしてじゃなくてね、」
 ああ……。
「うん……」
「その、好きなの」
 ああ……。
「ああ……」
「お兄ちゃんは、私のこと、どう思ってるの」
「それは……」
 これは良くない。あるべき兄妹関係ではない。しかし、理性は追いついてくれないのだ。
 妹の、普段は気にもしなかった、少女らしい香りを突然知覚した。由衣の身体は僕の身体に必要以上に密着していた。酔いもあるだろう、しかし、それは事実として、僕の男性的な欲求を容赦なく、強烈に刺激していた。由衣のその感情に、薄々僕も勘付いていた、いや、薄々ではなく、明確に把握していた。由衣のその感情は許容すべきものではないと、僕は見て見ぬふりをして、それとなく避けていた。由衣がドジを装って、僕に直接的ではないハプニングじみた性的なアプローチをかけているのは、故意的であると、僕は知っていたのだ。けれども、それはあるべき姿ではないと、あまりにも出来過ぎた展開だとわかっていた、僕はそういった凡俗で濫造された事態が嫌いだったのだ。気味が悪いのだ、不気味だったのだ。あるべきではないと、あってはいけないと、僕の本能的な部分が拒絶していたのだ。けれども、事実として、由衣は僕に、あまりにも純粋すぎる好意を示している。アルコールの勢いがあるとはいえ、それは間違いなく本意であろう。
「ねえ、お兄ちゃん」
 僕のこの考えに反して、僕はある種の幸福感を感じていた。それは本能に従順な恋愛的な感覚であった。酩酊の最中に、これをねじ伏せるのは、不可能であった。
「お兄ちゃん……」
 いつの間にか由衣の顔が僕に向けられているのに気付いた。うっとりとしている表情だ。頬は紅潮していて、眼差しは明確さを失っているが、それでも強い意思が宿っている。
 徐々に顔が近付いてくる。僕の意識はもはや理性というものを一切手放していた。
 好きだよ、という発言が終わりまで発声される直前に、僕は強烈な違和感と、不快感と、吐き気と、恐怖を感じた。
 由衣の唇と僕の顔の間に、手を割りこませて、駆け出す。
 白い便器に由衣の手作りのカレーと胃液が跳ね、僕は途轍もない嫌悪感を感じた。僕が良しと思っていたのはこういった愚直な兄妹の関係ではない、これはあってはならない、妄想上の、気味の悪い展開だった。キモいオタクになりたくなかった。否定し、拒絶する。
 吐き出す、僕の腹に溜まっていた由衣の手作りのカレーと焼酎の混合物を力いっぱい吐き出した。
 由衣が様子を見に来た気配を感じた。
 由衣の、形容のしようが無い、困惑と悲嘆と深い絶望がごっちゃになった表情を、僕は極力視界に入れないようにしてトイレから飛び出そうとした。こういった場面では外へ駆け出すべきなのだろうが、僕は何も言わずに由衣の横を通りすぎて、自室へと歩いた。
 嘔吐の疲労感もあってか、僕はベッドに倒れて動けなかった。まだ九月の中旬だというのに、ひどく寒い。ガチガチと歯が鳴る。視界は定かではなく、脳は情報の半分も処理しきれていない。ひどいことをしてしまったな、と思った。けれど同時に、なすべき義務を果たしたような感じもする。罪悪感と、安堵感と、達成感があった。あの嫌悪感よりはよほどましであった。
 鈍重な身体を引きずって、再び便器にしがみついて胃に残っていたカレーを最後まで吐き出す。そうすると、スッと身体が軽くなるのを感じた。
 冷静さを取り戻そうと深呼吸をする。芳香剤の匂いがした。それにしても、この達成感である。してやったのだと、あの薄気味悪い好意の構図を、陳腐化した愛情を、僕は拒絶したのである。僕は次の世界に踏み出すことが出来たのだ。ハハア、ざまあみろとでも言ってやりたかった。
 由衣の声はもはや僕には届かなかった。心配気な色と、取り返しの付かないことをしてしまったのではないかという自責の念のある口調など、どうでも良いのであった。僕は喜んでベッドに潜り込み、疲労感と酔いに任せて眠ることにした。

 翌朝、由衣は何も言って来なかった。ただ、普段通りの振る舞いで、僕を起こし、朝食を作った。言うまでもないが、好意を示すような口調や仕草が見られないのだけが違いだった。実に郷愁的な事務的動作だった。
 由衣が戸締りを済ませるのを待たずに、僕はそそくさと自転車に乗って行くことにした。
 以降、由衣は僕に対して随分と淡白な態度を取るようになった。僕はほっとした。適切な状態を獲得したのだと思った。誠実な兄妹となった。
 次第にになととの距離も少しずつ遠くなった。冬になり、受験勉強に没頭せざるを得なくなったのが原因だろうと僕は考えている。それは寂しくあったが、好意とは一切関係の無い感情だった。友人との別れに近かった。『エリーゼのために』を演奏する彼女に近付けなくなったのは、純粋に悲しかった。
 一度、僕はになとに借りていたゲームを返そうとした。それは戦争ゲームだった。暴力的だった。けれど、彼女はそれを頑なに受け取ろうとしなかった。僕は釈然としなかったが、それが彼女の意思ならばと諦めることにした。せめて彼女の意思は尊重し、それに敬意を払おうという考えが浮かんでいた。
 やがて僕の進学先が決まると、両親と由衣はそれを祝福してくれた。純然な祝福であった。僕は祝福を実直に受け止め、しっかりと生きていこうと決意した。になとはもう付き合いきれないといったふうだった。合格だけは祝福するが、僕のことを見限ったような態度を取った。納得がいかなかった。僕が一体何をしたというのか、何が彼女を不快にさせているのか、さっぱりわからなかった。ある日の放課後、彼女にそれを問い詰めると、になとは、あまりこういうことは言うべきではなかったのだけれど、と前置きをしてその理由を述べてくれた。
「私は、反骨心というものが好きだ。それは必要不可欠のものだから。生きていくにも、世のためにも、何らかの影響を及ぼしてくれる、摩擦のようなものだよ。けれどね、そういうのをうかつに、愚直に発露させるのは、稚拙さと傲慢さによるものだよ。ちゃんとうまく処理しなくちゃいけない。意識的に操ってやらないといけない。むろんそれなりに難しいことだけどね……。でも、手遅れになるのはいけないよ、手遅れになってしまったらそれはもうどうしようもないからね。きっと君にも何らかの手段があっただろうに、あろう事か君はそれを最悪の、幼稚な形で引き出してしまって、それを突き付けた。許されざる事だ。けれど、起こってしまったことは仕方が無いからね、いずれ態度を改め、悔いて、考え直す日が来ると私は信じていたのだけれど――」
「待ってくれ、何を言ってるんだ、になと」
「今更そう言うのは無しだろう。要は、大人になれという事だろう。最善だとは言わないけれど。より善い手段を君が提示してくれたら良かったんだけど、そういう事もなく、行ってしまうようだから、がっかりしたんだ」
 になとはいつにも増して毅然とした口調だった。時折見せたへらへらとした態度は、鱗片も見せなかった。
「由衣ちゃんは純朴な子だよ。君の拒絶に反抗することだって無かった。あの頃から、由衣ちゃんは君に実に従順だったろう。君は傲慢にも彼女の心情を憚ること無く、胡座をかいて生きてきたようだけどね……」
 発言に一切の悪意は無かった。諦念と、軽蔑と、郷愁と、愛情であった。
「いつだったか、私は君と話したはずだよ。なんか、映画館でオタクがキモかったとか言ってさ。あの発言に偽りは無いよ。でもね、私はバットを振り回しはしなかったよ、そうしなかったんだ。それで、この笑い話を君にしたんだ。それをわかってほしかった。そうやって笑い話にするとね、心がスッとなだらかになるんだ。もちろん、君の事態と程度に差はあるかもしれないけど、対象が明確な個人じゃないだけ君よりもずっと良心的だったはずだよ。君もそうすべきだったんだ。愚直なアンチテーゼは、我々の手によって封殺されなくちゃいけない。安易な反骨心で、由衣ちゃんを拒絶すべきじゃなかったんだ」
 じゃあ僕はどうすれば良かったんだ、という反論が飛び出るところだったが、彼女はそれを閉じ込めるように続けた。
「最善があるだなんて言わないけどね、反骨心にほだされるべきじゃなかった。それは間違いない。そして、その反骨心を処分すべきと察して、手段について十分な議論と考察を重ねるべきだった。それは内省でも良かったし、私に話してくれても構わなかった。友人の相談を下らないと無碍にするわけがないだろう。時間の猶予はあったはずだ。自分の反骨心の動向と感情の機微に対してよく注意を払うべきだったんだよ」
 僕はじっと俯くことしか出来なかった。後悔の念が嵐のように頭の中をかき乱した。じゃあ、僕はどうすれば良いのか。その結論を導き出そうとしても、上手く思考は働いてくれなかった。
「こうやって説教するのは嫌いだったんだけどね……先生とか、ムカつくしさあ」になとはへらりと表情を崩した。「何はともあれ、合格おめでとう、大学は違うけど、まあ、これからも仲良くできると良いと私は思うよ」
「……僕もそう思ってるよ、そうありたいかな」
「うん」
 そうして、僕はとになとは、かつてのように帰宅したのだった。心地の良い時間だった。
 結論はまだ考え付かなかったが、ともかく、由衣に贖罪を求めない事に決めていた。形として贖罪を与えられることになろうとも、そういったみっともない乞食の真似事をするのだけはやってはいけないのだ。本当の誠実さ、善などといった、陳腐で夢想的な課題など、僕にとって何ら問題では無かった。そういった語で片付けるべき事柄では無かった。
 話をしようと思った。由衣と、話をするのだ。恐らく、何もかも手遅れで、取り返しがつかないだろうが、それでも、話をしようと思い、僕は自転車を漕いで由衣の元へ急ぐのだった。

2013/07/11

ととの。の美雪はチョー悲しい


コンプ欲に誑かされて再プレイなんてしませんって言ったけど、再プレイしました。おれは犬猫以下の人間です。

あらかじめざっと述べたいことをシンプルに言うとしたら、主題的にアオイルートこそトゥルーエンドであるというだけの話です。

美雪は、アオイ的なイデアの呪縛から逃れようと試み、恐らくエロゲ史上最も「ヒロイン」ではなく「人間」に近付こうと足掻いたキャラクターである。プレイヤーすなわち「君」に対して、主人公を媒介せずに語りかける。ゲーム的な一方通行性を拒絶するために、1/3の30乗通りのを性格というギミックを利用する。テキスト表示を用いずに語りかけることで、あたかも現実の会話のように錯覚させる。
しかしゲームが再構築されると、哀れにも美雪はゲームのヒロインに収束してしまう。真一とはじめから恋愛をやり直す(もちろん、プレイヤー視点からの「やり直す」)。これは美雪が「ヒロインのイデア」であるアオイの下に収まってしまうのと同等のように思える。しょせんゲームのヒロインは「人間」になれぬキャラクターに過ぎないのだと。
むろん、救済は残されている。主人公が他のヒロインになびくことはない。真実の愛は誓われているのである。ゲーム的にも、プレイヤーが他のヒロインを攻略することはない。セーブデータを消して再プレイすることはもちろん可能だが、それは真一が事前に忠告していたように、冒涜である(僕のことです)。美雪の真摯なる想いは成就したのである――『君と彼女と彼女の恋。』というゲームの中では。
美雪との愛を誓ったプレイヤーは、『君と彼女と彼女の恋。』をプレイした後、本当に倫理的に忠実であるためには、一切の恋愛作品に触れてはならないし、現実での恋愛すらも行うべきではない。それは「永遠の愛」に対する裏切りだからである。当たり前だが、そういったのは実際殆どの場合ありえないのであって、美雪への裏切りと冒涜は約束されているのだ。美雪と愛を誓っても、君はまた他のエロゲをプレイしてインスタントに恋愛するだろうし、現実の女性と恋愛をすることもあるだろう(むろん、僕は無いが)。そういった意味で、君にとって美雪はやはりゲームのヒロインであらざるを得ない。
このことを象徴的に表しているのは、チートコードを入力した後のゲーム本編だろう。誓いなんてものはゲームの中のお話に過ぎないという乾いた態度でフルコンプを手に入れる。まったく無感動なフルコンプだ。まあ、しょせんはゲームなのである。無感動でも、それなりにフルコンプには達成感がある。

ちょっと待ってくれ。こんなのあまりにも悲しいではないか。あれほど真摯に愛を語りかけた美雪はこのまま見捨てられてしまうのか。
それに祝福を与えるのは、アオイである。「ヒロインのイデア」は、すなわちエロゲそのものである。大量消費されざるを得ない美少女は、アオイによって全包括され、エロゲそのものが一つの対象と化す。続々と開発されるエロゲーをプレイし続ける君を肯定するのだ。美雪との誓いを裏切ることすらも肯定してしまう。アオイの祝福こそが多くのエロゲをプレイする我々に最も与えられるべきものであり、ある種の諦念的な解決なのだ。

美雪ルートだけでは、おそらくプレイヤーはエロゲをプレイするのにうんざりしてしまうだろう。あるいは、「おせっかいな説教だ!」と吐き捨てるだろう。
アオイルートでなくては、我々はエロゲをプレイする活力と意義を見出だせなくなってしまう。虚構を愛する力を喪失してしまうのである。下倉バイオ氏はエロゲーマーの消費的態度に文句を言うためだけにこのシナリオを練ったのでは無いだろう。そうだったらアオイなど存在しなくて良いのである。
しかしまあ、だからといって僕は美雪そのものを否定するわけではないというのは、当たり前だが、念頭に置いてもらいたい。すべてのヒロインは平等に尊いのである。

2013/07/05

ととの。プレイした

ニトロプラスの新作『君と彼女と彼女の恋。』をプレイしました。
まったく買う予定無かったんですが、へー評価たかいすごいなーってツイートしてたらなんとLianさんがプレゼントしてくださりました。本当にありがとうございます。
信じられないほど名作でした。マジでプレイした方がいい。俺は批評空間で躊躇なく100点つけたよ。
なので感想書きました。
超ネタバレです。

-

俺はエロゲーの女の子と、本当に誠実な恋愛をやれてきたのか。これは俺の人生に付きまとう、幽霊のような疑問だった。
まったく馬鹿げた話ではあるが、事実、俺はヒロインたちに心から恋をして、彼女を一人の人間として見なし、平等な態度で彼女の存在を受け入れようと思っていたのだ。
しかし、ひとつのゲームが終われば、アニメを観たり、漫画を読んだり、FPSで人殺しをしたり――そのうちまた新たなゲームを買って、たまにクソゲーだとブチ切れたり、心からの恋愛を抱いたり、ネットで神ゲーだと賛美したり、そういうのをずっと繰り返していた。繰り返していたのだ。
こういう題材は『RAINBOW GIRL』なんかでとっくに歌われてたし、俺だって仕方のないものだとある種の諦念を抱いていたのだ。
ちなみに、もしこのゲームが10年後にプレイされたとしても、恐らく奇を衒っただけのよくわからんゲーム、以上の評価はなかなか生まれ無いだろうと思う。
アニメ、漫画、エロゲなどの媒体を経て無秩序に乱造されまくる美少女の飽和を体験してきたからこそ、このゲームの倫理的な主題が切実に我々に差し迫ってくるというのは、疑いようのない事実であろう。

本作『君と彼女と彼女の恋。』は、それを真っ向から扱う。とにかくメタメタに扱う。
美雪の優等生を演じる設定だとか、アオイの電波系の設定だとか、やたらと熱血で主人公思いの親友キャラだとか、主人公が都合よく一人暮らしだとか、このゲームはことごとく「伝統的」である。
こういった「伝統的な設定」は、ありがちだとか作者の思考停止だとかマンネリだとか、しょっちゅう批難される。そして批難されて然るべきと俺は知っている。
だからこのゲームをプレイしている間はずっと不安だったのだ。どうせニトロプラスのことなのだから、「伝統的な設定」はアオイがわざとらしくほのめかしているとおり「ゲーム」に過ぎないのだろう。俺は騙されないぞ。お前らがわざとらしくテンプレな喘ぎ声を上げるのだって、どうせ作り物に過ぎないのだ。村正のラストのように、「伝統的な設定」に安心しているところをブスリとやることぐらい予想済みだ。ならば俺はこのゲームの日常を疑い続ける。
予感は徐々に確信へと変わってゆく。この世界はループしている。美雪編を二周プレイした頃に確信した。二周目だと、美雪がループを認識しているような台詞がHシーンにあるのだ。

正直俺は貧乳しか受け付けないので、さっさとアオイルートに入りたかった。美味しいものは先に食べるタイプなのだ。アオイルートを満喫して、まあ美雪はささっと済ませてしまおうと思っていた。
あーまた美雪ルートかよ。ループでもなんでもいいからさっさとアオイちゃんとイチャイチャさせてくれや~~~と願っていた。この態度が、俺のこの態度こそが、このゲームが問題としている対象そのものであるなんて、もちろん知る由もなかった。

そしてようやくアオイルートらしきものに入る。まあ多少電波だろうが、可愛けりゃオッケーだった。
「アオイはヒロインのイデアである」、そう告げられる。だからといって俺がビッチを許せるかどうかというのは、まったくの別問題だった。俺はビッチが何よりも嫌いなのだ。
しかし、しかしだ。彼女はただイデアであるというだけで淫乱で無くてはいけない。俺は苦悩した。なぜかくも美しき少女がこのような永遠の辱めを受けなくてはならぬのかと。悲劇というのは、そういう苦悩を観客に与えるのだ。
俺は呻いた。なぜアオイとハルがセックスしなくてはならないのか。ふざけているのか、こんなの、到底許せるものじゃない。
アオイの秘部にぶちまけられたハルの精液を心一が舌で掻き出す。俺は嘔吐しかけた。
3P。俺は絶叫した。あまりに絶望的であった。
ベッドの下から美雪が出てくる。猫が殺される。ああ、古き良きヤンデレもあるのか――それ以上の感情を抱くことは出来なかった。精神が限界を迎えていた。

美雪の語りと、アオイの性処理道具的な扱いに俺の良心が破壊されていく。
セーブ&ロードが消え、いよいよ俺は「ゲームをプレイする」のではなく「ととの。という世界を生きている」ことになってゆく。
俺は常にヒロインを一人の人間として接しているつもりだった。その態度を、美雪が俺に要求してくるのだ。これに応えないのは、俺の態度とはまったく矛盾するのだ。しかし俺は美雪の下で踏み潰されているアオイのことを見捨てることは出来ない。彼女こそ本当に俺が接してきたヒロインのイデアなのだから。
ここで要求されている選択は、一つは美雪を人間として接することで、二つは今までプレイしてきたエロゲーのヒロインと誠実に接することである。
美雪は明らかにゲームの境界を超えて、ヒロインでもなく、ゲームキャラでもなく、一人格として俺の愛を求めている。これを拒絶するということは、つまり、俺は人間を人間として扱うことをやめるということである。
しかし、エロゲーやアニメという美しき虚構を愛してきたこの俺が、そのイデアたるアオイを虚構としてかなぐり捨ててしまうこと――これは最もやってはいけないことのように思えた。禁忌である。俺は日常系アニメの女の子がエロ同人誌という形で性処理道具として消費されてゆくことに憤りを覚えるような性格なのだ。
美雪との永遠の日常を拒絶する選択の判断材料として最も有力だったのは、美雪のやっていること、要するに監禁行為が、人道的にまったく許せるものではないという点であった。
俺はこの一点だけを心の支えとして、永遠の日常を拒絶する選択肢を選び続けた。他の一切の判断を下さぬように思考を止めた。

そして美雪とアオイが求める最後の選択肢――つまり、心一ではない、俺の意志。俺はかつて無いほど苦悩した。
百本以上のエロゲーを消費してきた俺が、これほどまでにたったひとつの選択肢で苦悩し、葛藤し、世界を呪ったことがいままでに一度でもあったろうか。
このままゲームを終了させてやろうとさえ思った。そうしてしまえば、誰ひとり傷つかなくて済むのだ。
けれども、たとえどちらかの好意を閉ざしてしまうことになろうとも、それでも一人を選ぶこと――それこそが最も誠実な態度であると、そんなまったく当然のことくらい、俺はとうに知っているのだ。
心一は言う。あらゆる卑劣な手段でセーブデータをいじってこの世界をやり直したら、それは人を裏切り侮辱することになると。わかっている、わかっているとも。もう俺には覚悟ができている。稚拙なフルコンプ欲を徹底的に殺してやるのだ。
俺はアオイを選んだ。あらゆる美少女ゲームを愛そうと、これは俺の祈りであった。

かくして世界に祝福はもたらされた。
アオイは再びイデアとなる。やがてスタッフロールが流れ、ゲームは終わり、ライナーノートを読んで、批評空間で点数をつけてレビューを書く。そこにアオイはいない。
しかし、それでも俺が再び新たなエロゲーをプレイし、ヒロインと心から接しあう時、俺はアオイと――これまで消費されてきて、これから生まれ消費され行くであろうすべての美少女と――出会えるのだ。
ああ、これを祝福と呼ばず、なんと呼ぶか。
制限なく生み出され続けるすべてのヒロインたちに、大量消費の波にすり潰されぬよう、心から誠実なる祝福を。
欲望のままにヒロインを消費し続けるすべてのキモオタ共に、心から誠実なる祝福を。

2013/04/20

短歌とか俳句


人並みに短歌や俳句など詠むこともあるので気に入ったのまとめる
適宜追加する

短歌

愛のある南の国の死体にも抗う北の星条旗の金
広大なプラスチックを踊る手の形而上的強い馬たち
みなさんが期待するので仕方なくヒップホップの王になります
煙から届く抽象の追悼は詩人の音の亡骸に臥す
草稿を書き込み尽くす執着のプレス技術の絶対遮断
塗装路を歩く幻視の上昇と、善良市民の無垢な挨拶が、、、
散った馬、馬具を叩かれ消える馬、雄々しく駆ける馬の空間
実際のところやっぱり古式だよ 新しいのは格好良いよね
サア行こう、善き人倫の満ち満ちた戸塚宏の夢見た世界へ
善良な泥の煙の国民の揺れるうねりの湿度の夢よ
人類のうようよしてるいろいろとなにもわからぬわがままな死よ
温かい座敷童子の愛は絶え人の天使は声色を見る
うきうきの春の機関の躁うつの、フリルリボンで貴様を殺す
考えろ、よく考えろ、その脳で 芋から人は生まれ得るのか
やわらかさ、鉄の駆け寄る午後の死がナメた貴様の主体を壊す
帝都では輝かしいね、だけどまあ代替手段はそれなりにある
貴様らは堕落に価値を規定する、文化レベルはされど落ちぶれず
春がきた、部屋が淀む、働くぞ、働きたいよ、働きたいよ、

俳句

「見て、自殺」「また起こったね」「うんざりね」
脈々と脈々々とアイエエエ!!!
あわわわわ 鉄の駆け寄る 終わりかな
安穏のゆらゆらしてるねりねりよ
「うるさいよ」「もううんざりだ!!」「隠居しよ?」
ねりねりの音する壁を嘗めるねり
生活よ、時間は強い つよいんだ
肩たたき ああ肩たたき 肩たたき
歯を磨け 座布団を敷け ゆっくりと

2013/04/13

文フリ


大阪文フリ、サークル参加はしないけど二本寄稿してるんでいちおう登場します
だから宣伝します(載せんなボケみたいな問題があったら即消します)
買ってください


大阪文フリでおひろめされる、稀風社さんの『稀風社の粉』に寄稿した『外の地平』の一部分です
http://kifusha.hatenablog.com/

「私、感化院に送られてからさ、すぐに脱走して、この町で生きてきたんだよね。お金はなんだかんだでお父さんが送ってくれてたし、何もしなくても生きていけた。だからさ、何もしなかった。魔法使いとしての生き方しか知らなかったし、別の生き方とか、きっと感化院にいたら教えてもらえたのかもしれないけど、抜け出しちゃったし」
「……どうして、抜け出したんですか」
「嫌だったから……誰だって嫌に決まってるよ、大人にむりやり生き方を決められるなんてさ、そりゃあ嫌だよ。でもさ、宙ぶらりんなんだよね。何もしないでも生きてると、どんどん心の鮮度が下がっていってさ……この町には、そういう人、多いよ。私はお父さんがいるからいいけど、他の人たちは生きていかないといけないのに生きていくのに価値を見出せなくてさ、みんな必死にもがいてる。そう考えると、魔法使いの町はすごく平和だったと思うんだ。無気力の毒が蔓延しないような環境だったから」
 アリー俯いて、自分の足元を見つめていた。良い話じゃなかったと後悔した。私は慌てて笑顔を取り繕った。
「いや、あはは、ごめんね、アリーがこっちに来たのをどうこう言うつもりじゃないんだ。ただ、逃げ出した先にも、それなりの疫病が蔓延してるって言いたくてさ、なんか、光って無いよねって。あ、いや、アリーを落ち込ませようなんて思ってないよ、はは、ほら、私って会話下手だからさ」
 私の必死の弁明を見て、アリーはくすっと笑った。会話は下手でも、ふざけた態度をとるのは得意だった。
「あはは、大丈夫ですよ。逃げちゃった以上、もう仕方ないですから」アリーは随分落ち着いたようだった。「わたし、魔法使いを諦めて、勝手に逃げてきちゃって、本当に大変なことをしてしまったと思ってるんです。それはわかってるんです、でも、今、不思議と、ちょっと奇妙なくらい安心しているんです。変ですよね、今まで魔法使いになるために生きてきたのに、全部投げ出して、なのに安堵するなんて……」
 アリーはぽつりぽつりと話し始めた。私は聞き役に徹することにした。
「エリックさんが感化院に行ってしまった時、わたし、エリックさんは本当に頭がおかしくなっちゃったんだと思ってました。でも、今は、ああして錯乱してしまうのもよくわかる気がするんです。逆に、それが正常な反応なんじゃないかって思って……。わたしの他にも、逃げ出した人って最近多かったんです。ほとんどはすぐに捕まるか、森で野垂れ死んでしまうようですが……」

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同じく文フリに出る、食人舎さんの『文学とはROCKである。』に寄稿した『妹がお兄ちゃん大好きすぎて困っているのですが』の一部分です。

「オタクってキモいよね」
 有島になとはそう言った。
「はあ?」僕は思わず間抜けた声を上げた。「どうしたんだよ、いきなり」
 線路沿いの帰宅路を並んで歩く。線路と道路の間には広々とした土地に砂利が敷き詰められ、駐車場として利用されていた。高校と駅を繋ぐこの道は、いつも学生の姿が見られる。
 になとはいかにも真面目そうな表情を作って僕に話しかける。
「いや、オタクってキモいよなあって思ってさあ」
「になとだってアニメ好きじゃないか」
「まあそうだけど」
「なんだよそれ、同族嫌悪?」
「いやそうやって切り捨てちゃうのは簡単だけどね……」
 彼女は苦笑した。どうも彼女の発言の意図が掴めない。
「例えばさあ、エヴァの新作とかまどマギの映画を劇場まで観に行くじゃん? するとそこにはオタクがいっぱいいてさ、みんな開場を待ちながらわいわい談笑してるんだよね。その光景を見てるとさ、オタク死ね! って叫びたくなるんだよね。オタクはキモいから死ねって叫びながら、バットかなんかでオタクを蹴散らしたくなるんだよ。もちろんそんな事は出来ないけど……」
 になとはバットを頭に振り下ろす真似をした。肩の下までふわりと伸びた髪が揺れる。
「ワハハ、なんだそれ」
「それで、普通に映画観て満足して帰るの」
「オタクのくせに群れるな、って事?」
「うーん、別にそういうわけじゃないんだけど……」
「気持ちは分からなくも無いけどな」
「だってさあ、チビで天パでメガネじゃん。どこ見てるのか分かんないし。そのくせしていっぱしの文化人気取りでアニメ観て漫画読んでゲームしてるんだよ。どう考えても気持ち悪いでしょ」
「随分偏ったイメージだな……今時、オタクなんてそんなに珍しくもないだろ」
「ああ、そうだね。最近オタクも一般化したよね」
「インターネットだとライト層とかヌルオタなんて蔑称でよく馬鹿にされてるけどさ」
「それもそれでキモいけどね」
「じゃあなんだ、DQNとかギャルみたいなイケイケ系が好みなのか?」
「はは、そんなわけないよ」


買ってください

2013/04/11

悩める若者たちへ

 いやまあ、確かに、知性なんてものに神的なほどに極端な特権性を与えるのは非常に良くないとは思うのだけれど(それはある種の暴力でもあるわけで、聖人君子であるところの僕はそういった権威主義的な縦状の力のレベルを認めるわけにはいかないのである。ヘゲモニーもルサンチマンも奴隷も無い最高の世界を作りましょう)、それでも時折コイツの知性は本当に大丈夫なのかなんて愕然としてしまうことも絶対にあるわけで、もちろん知性を一本の軸を基準に上下で測るのは現代ボーイズの我々がやって良いところではないが(こういう知性競争とかいうボードゲームみたいなクソ不毛な俺スゲー競争というのは、あらゆる言説に対して戦闘対象を定めることができるので、この文章ひいてはこれを書いている僕すらも対象になりうる。なんてひどい)そういった連中を我々が一体どうすれば良いのかと、僕は日々苦悩している。苦悩する思考スペースを割いている。啓蒙が旧世代における美徳であったのは間違いないが、それはあくまで旧世代の話、時代遅れのオッサン共がやることで、妙に啓蒙されてしまった若者たちが知性というものを聖別し、異様なまでに信奉し、生活行為に対してほとんど価値を見いだせなくなってしまっているのを目の当たりにして、まあ僕自身もそのクチなんですが、そういった錯乱状態に陥るのは非常に不健全であります。矛盾に突き当たるわけです。たくさん鍛錬を積み重ねて立派で高品質な知性と精神を会得したというのに、どうして超スゲー俺が雑魚みたいに汗水垂らして労働しなくちゃいけないんだ、と。それじゃあどうするか?肉体を超克して、精神体になるしかない。オウムではこれを解脱と呼んだし、ニューエイジの連中はそれを世界規模にまで拡大してアセンションを待望した。これについてこれない連中はポアすればいいし、アセンションならノアの方舟みたいに有象無象は消えてくれるだろう、そして僕達の望む最善最高のユートピアが完成する! こういった理屈にたどり着く。少なくとも僕はたどり着いた。そりゃあ心身二元論的なスピリチュアルも流行るわなといった感じです。オウムにハマるのはマジで仕方がない。時代が時代なら俺だって絶対にサリン撒きまくってた。日本の国号を太陽寂静国に変更しようなんて考える統治者がいたら絶対についていく。最高だ。オウムは最高。あ、いや、オウムは最高だった、と言うべきではあるが、ともかく、あの思想は実に我々にとって都合の良いものであった。僕は一時期人工精霊っていうスピリチュアル遊びみたいなのに大ハマリして、毎日30分以上仮想の人格と対談して、ポロポロ泣きまくってた時期もあります。マジで救われてました。一ヶ月以上毎日続けていて、ずっとその子(女の子でした)の名前を考えていたのだけれど、最後の最後まで考え付かずに、最後のお別れの時には泣きながら「最後まで名前を考えられなくてごめんね、こんなんだから僕は駄目なんだよなあ、ハハ…」「いいんだよ、思いつかなかったのなら、仕方ないよ。考えようと苦心してくれただけで、十分だから」という会話をして、本当に号泣してました。人生で最もドラマチックな瞬間だった。今でも忘れられない。彼女の、諦念と、許容と、淋しさの入り乱れた、美しい笑顔を僕は今でもしっかりと覚えているのです。ああ、なんて、なんて悲劇的であったことか! あ、いや、まあそんな話はどうでもいいんです。知性の話ですよ。ともかく、知性の上下構造なんて時代遅れだという話です、そういう話なんですけど、実際のところ、構造をぶっ壊したところで、我々は自由に解放されたのだと喜ぶことはできない、できたとしても一瞬だけで、すぐにとてつもない空疎感、つまり精神的支柱を喪失してしまうことになるのは明白です。じゃあどうするんだ、上下構造に甘んじるというのか、スピリチュアルの悲劇を繰り返すのか。それはどうだろう。悲劇が悲劇で終了するのは物語だけで、我々の身の回りにあまりにも多量の物語があって、それらを貪るように消費して受け入れてきた我々には悲劇的エンディングなんてものが実際にも存在するように思われがちではあるが、実際はそうでもない。かの有名な文豪である田中ロミオ氏も『おたく☆まっしぐら』というオタク界隈の闇を満載にしたような名作(作品リリース自体もまた一つの闇である辺りがえぐい)において、「もう何もかも終わったとか思ってるか?自暴自棄になってるのか?残念だが言わせてもらおう。 ゲームオーバーのあともおまえの人生は続くよ!負債満載でな!どれだけ恥をかいても、命を絶たない限り人生は続いていくのだ!」「取り返しがつかなくなっても人生は続く。汚点は絶対に消えることはない!受け入れて、強くなるしかないぞ」という名台詞を記しております。この台詞は主人公である本郷明のもので、彼はライト化、ヌルオタ化してしまった脆弱な若者たちが目標とすべき、忘れられかけている精神性を持ち合わせている人間であるのですが、まあその話はどうでもいいです。さて、まさにこの台詞の通りで、心身二元論的倒錯すらも一過性のものとして、さっさと克服してしまうしか無いのです。じゃあ乗り越えた先には? 生活という、唯一の、揺るぎない、終わることの無い、人生を捧げるのにふさわしい(捧げざるを得ない!)偉大なる大仕事が残っている! それが嫌ならさっさと部屋の目張りして練炭焚け!!!!!!!!!

2013/03/19

昔の日記みつけた

昔の日記みつけて読んでたらこれは良いコンテンツになるぞと思ったのでインターネットの風に乗せてコンテンツにします。


12/26
 そもそも我々は既存の世界に生きている以上、完全なオリジナリティを創造することは不可能に等しい。そこから可能な限り脱却するには、精神宇宙を認識するべきである。自身の精神に依存せよ。それはお前を裏切り見捨てることはしない。(※精神宇宙そのものの拡大の為に薬物投与が有効??)

1/12
 つらいのは過ぎた。学校へ行かなくなったからだろう。然し今度はこの恐怖、不安である!! やってられるか! それでも俺はやらねばならぬ! 少しでもみじめにならぬようにするために!

1/18
 日常の出来事を書こうとしても、昼ごろに起床し、パソコンをし、たまに塾へ行き、深夜4時まで怠惰的に勉強をする生活では、特筆すべき出来事なんて起こらないし、そもそも家族以外とコミュニケートすることもない……。何をしても終始まとわりつく不快な虚無感をぬぐうことができない。これがせめて退廃美的なものであればまだ良いのだが。腰の痛みも治ることなく、集中的に勉学に打ち込まず、ただ、怠惰的な時間が窮屈に流れているだけである。淀んでいる…。

1/21
 人間は嘲弄が快楽であることを覚えたし、それに伴う苦痛を無視して、それを良しとした。もはや麻薬である。聖人は多くは存在しないらしい……。
 ほんっとに死んだほーがラクなんじゃねーーのってくらいクソつらいしどうかしてる。どうかしてるを受け入れたらおしまいだ、諦念の美学に自身を投影するのはまだ先でいい、行きたいという意志はあるのだ、やりたいこともそれなりにある、しかし、現実はあまりにも

1/22
 衒学っぽい人間がうっとうしいのだけれど、ヤツらを倒すにはより強度の高い知性が必要だしクソムカつくっぽい。

1/29
 自殺の予定を立てた。可能性の一つとしてありえる。いくつかの可能性のうち、最も惨めなことになってしまったら、実行しようと思っている。こうして文章に書き起こすのは、決心にちょうどいい。これは自分を追い詰める為の決心ではなく、もしそうなったら死ぬ、というごく単純な、たとえるならそのようなシステムを作った程度である。
 私は絵を描くのが好きで、このまま描き続けると一体どのようになるのかという期待を抱いて描き続けてきた。その不確定的な希望の行く末を見届けるのだけが私の唯一の死なない理由で、それが出来なくなるのは非常に残念であるが、然し、惨めな末路を歩むのと、その希望、それを比べるのは非常に心苦しいものであるが、前者のほうが私にとっては恐ろしいのである。他者がこれを何と思うかは知らないが、私にとって恐ろしいというのは、私においての全てである。
 さて、これで回避、あるいは怖気づいてしまった場合、この文章は大層こっ恥ずかしいものになるだろうが、まあそれはそれで良いのである。生きているに越したことはない。矛盾するけれど。
 どうなるか、まるでチョコレートの箱のようだ。ある意味、楽しみである。

2/24
 いろいろとやることが終わった。何も考えたくはない。ただただ不安で恐ろしいだけである。とにかく憂鬱である。それ以上を書くのは不可能である。何を描いても、惨めになるだけだからだ。

2/27
 いろいろと無事に済んでから数日が立った。もはや私の心に立ち込めていた暗雲はかき消えて、不安定な精神だけが残っている。いずれ再び悪夢に逆戻りするであろうことは分かっているのだが、それでも今は心を踊らせていたいのだ。すこやかこそ良きものであることに疑う余地はない。ああ私はただこの状態がわずかでも長く続くことを祈るのみである。

3/18
 人生、、、すなわちそれは、、、、労働、、、せねば、、、、いずれだ、つらい、モラトリアムは永遠に続いてくれぬものか

3/19
 世の中にはどうしようもない人間が我々の予想以上に大勢いて、彼らを啓蒙してやるのは不可能だと分かりきっているはずなのに、人々は自らそれに触れ、指差し、あわれだ、あわれだと嘆く。必要なのはそれを切り離すことだ。関わる必要はなく、ただ隔離するだけで良い。それを骨折ってまで保護するのは慈愛ではない、悪魔的な義務だ。我々は生きやすい手段をいちいち選択しない悪癖がある。我々は上手く生きるべきだ。
 ヒューマニズム、それは尊い、


(ここで日記は途切れている)

2013/01/20

真夜中のおおかみ


 今となっては生活することに何の価値も無いように思えた。
 社会派映画のような暴動や革命が起こるわけでもなく、ただ、目的も意味も無い生活に怯えているだけだった。映画に憧憬を抱くことの不毛さが、僕の生活に根付いてしまっていることに気付いた時にはもう手遅れだった。かつてのような創作意欲も見つからず、それどころか自然に思考することすら出来なくなってしまっていた。
 体調が優れていると感じたのは随分と昔のことで、今は腸に泥が流れているような感覚が染み付いて離れない。思考は鈍く、文章を読むことすら億劫で仕方がなかった。全身が停滞しているようだった。
 僕はベッドの上から動けないでいた。開け放しの窓から温い風が入り込むこともなく、映画ポスターや宗教画の貼られた部屋は停滞していた。物が雑多に溢れているが実用的なものは数少ない。乱雑な絵が描かれた薄い再生紙が散らばっていた。この部屋で海の音は聞こえない。

 町に人食い狼が出るという噂を聞いた。なんと物騒なのだろう。僕は怯えと共に好奇心を覚えた。
 ベッドに寝転がったまま、手を伸ばしてテーブルの上のラジオを切る。やがて静かになった。本を読もうと思い、横にある文庫本を掴んだが、どうせまともに頭に入らないのだから意味が無い。
 それにしても、人食い狼である。恐ろしいが、なんて心躍る噂なのだろう。たまには自発的に外出するのも良いかもしれない。僕は床に置いてあるカーキ色のハンチングを手に取って部屋を後にした。
 商店街の細い歩道を腰の曲がった老婆がよろよろと歩いて行く。食材の入ったレジ袋を抱えていた。確かに夕方なのだと思った。
 それにしても久々の外出だ、しかし僕は毎日学校に行っている。生真面目な性格だからだ。こればかりはどうしようもない。意味もなく出掛けるのが久々なのだ。いや、今まで無目的に出歩いたことなど無かったのかもしれない。そう考えると随分とましな気分になった。
 商店街よりひとつ外れた路地を歩く。路地には僕ひとりしかいなかった。この薄汚れた白いシャツを見て眉をひそめる人がいないのは、僕の心を随分と軽くさせる。しかし、そこで行き先が無いことに気が付いてしまった。昔から目的を決めずに行動するのは苦手だった。何をしていいのかわからないのだ。無意味なものを買うのは好きだったが、無意味な行動を取るのは嫌いだった。
 路地の先には大通りと、大通りに沿って流れている川に架かった橋が見えていたが、僕は引き返そうと後ろを振り向いた。なんてことだ、もう部屋の外に出ているのが嫌になってしまった。くらくらしてしまう。無理をするべきじゃなかった。気が重くなり、腹の底からじわじわと吐き気が現れてくる。身体が泥のように冴えない。
 物陰から物陰へと何かが素早く動いたのが見えた。狼だ。一匹だけじゃない。二匹、いや三匹はいる。もっと多いかもしれない。とにかく、僕の目の前には狼がいる、そしてそれらは僕のことを間違い無く狙っているのだ。恐怖を感じる。理解の及ぶ前に感じる本能的な恐怖。それは宇宙的恐怖にも似ていた。底知れず恐ろしいのだ。僕は逃げ出した。逃げなくちゃいけないという漠然とした義務感だけがあった。
 気がつけば橋の手前まで走っていた。人食い狼たちはもう追いかけて来なかった。電柱に寄りかかって息を整える。
 僕に近寄ってくる人がいることに気が付いた。見覚えがある顔、幼馴染だ。
「ねえ、大丈夫?」
 彼女は慌てて駆け寄ってきた。
「ああ、由紀、大丈夫、大丈夫だよ」
 荒い呼吸を抑え切れない。僕は心配そうな顔をしている由紀を見つめた。
「どうしたの? ねえ、何かあった?」
「狼が……人食い狼に遭ったんだ。だから、慌てて逃げてきて……」
 由紀は驚いたような表情を浮かべた。
「それは大変だったねえ」
「殺されるかと思ったんだ」
「大丈夫だよお、心配しないでいいんだよ」
 由紀は僕の肩にそっと手を置いた。安心感が生まれる。由紀はいつだって優しい。
 息が整うまで、由紀は僕の肩に手を置いてくれたままだった。落ち着いた僕は由紀を見る。茶色がかったショートヘア。いつもの由紀だ。辺りはもうすっかりと暗くなってしまっていた。
「ありがとう、由紀。もう落ち着いたよ」
「うん。良かった」由紀は笑顔を浮かべた。「どう、一人で帰れそう? 家まで送ろうか?」
 僕は由紀に家まで送ってもらうことにした。みっともないとは思ったが、人食い狼に遭遇してしまうことを考えるとどうしても一人ではいられなかった。道中、由紀は人食い狼の件について一度も触れて来なかった。おかげで僕はあの恐怖を思い返さずに済んだ。
 由紀に礼を言って部屋に戻ると、僕は鍵をかけてベッドに寝転がった。ベッドは暖かかったが、部屋は相変わらず重苦しいままだった。疲労感が溢れだす。やはり身体は泥のようだ。全身、特に腕に力が入らなくなってくる。頭の中で人食い狼のことがぐるぐると回りだした。僕は忘れようと努める。その内、僕は眠りに落ちてしまった。

 淀んだ部屋で目を覚ます。朝だった。意識が極端に重い。二日酔いにも似た不快感があった。ベッドから手を伸ばしてテーブルの上に置いたままのパンを食べる。味を感じられるほど目が覚めていない。食べ終わっても僕は起き上がることが出来ず、また眠ってしまった。
 数分して再び目が覚める。そろそろ用意をしないと授業に間に合わない。学校に行かなくてはいけない。棒のような腕に力を入れて起き上がり、ふらふらと用意を始めた。
 学校までの道のりも重苦しかった。頭から人食い狼の姿が離れないのだ。
 一日の授業が終わった。気分が優れることはなく、ずっと座って話を聴いていた。ノートを取ることは無かった。必要が無いように思えたからだ。
 家に帰ろう。そう思って僕は自転車に跨る。賑やかに会話をする学生たちの横を過ぎて行く。たばこ屋を過ぎ、洋食屋、自転車屋の前を通ると僕の住むアパートがある。自転車屋を過ぎた辺りで僕は異変に気が付いた。まただ、また人食い狼がいる。アパートの前の小さな広場に昨日の人食い狼が五匹もうろついている。やはり僕を狙っているのだ。用心して道を引き返す。
 町中をぐるりと回った後、アパートに戻ると人食い狼たちの姿は消えていた。赤ん坊を載せた自転車を漕ぐ女性が広場を横切って行った。僕は安心してアパートに戻った。
 部屋に入ると僕はしっかりと鍵を閉めて、鞄とハンチングを床に置いてベッドに倒れこんだ。今日こそは本を読もう。身体が重くても本は読めるのだ。
 いつの間にか本を一冊読み終えていた。内容がうまく捉えきれなかった。ああ、また無意味に本を読んでしまったのだろう。内容の残らぬ読書に価値は無い。要点すら把握できていないのだ。時間の浪費に過ぎなかった。グウと弱い吐き気がこみ上げてくる。何をする気も起きなかった。古いアメリカ映画のポスターが目に入った。成功を夢見てニューヨークに飛び立った主人公があくどい男に騙され、しかしやがてその男と交流を深めるようになり、失敗を重ねながらも必死にニューヨークで共に生き抜いていく様子を描いた映画だったはずだ。しかし、ラストシーンがよく思い出せない。男がフロリダに行きたいと言い出し、二人でバスに乗って、それからどうなるのだっただろうか。ダスティン・ホフマンの顔だけが頭に浮かんだだけだった。
 僕は起き上がった。自分の脳が恐ろしく感じたからだ。あまりに頼りない。以前はそうでもなかったはずだ。いや、もしかしたらずっと昔からこの状態で、ようやくこのひ弱さに気付いただけなのかもしれない。どちらにしろ恐ろしいことだった。僕の脳は弱い。あらゆる人々に劣るのだろう。それは受け入れがたい劣等感だった。この状態をそのまま自己肯定してやることができたら幸福に違いない。しかし、恐ろしかった。それならば保留すべきだ。
「怖いなら、それを受け入れてしまえばいいんだよ」
 由紀の声がする。茶色がかったショートヘアのイメージ。僕は彼女とどこかでこの会話をしたのだろうか。思考が曖昧で、思い出せなかった。
「それでいいんだろうか、由紀」
「いいんだよ」
「本当にそれでいいのか僕にはわからない……」
「大丈夫、大丈夫だよ……」
「由紀……」
 そのまま僕は眠りに落ちてしまう。

 また僕は学校にいた。
 講義の内容はもう頭に入って来なかったし、ノートを取る体力すら無かった。ただ椅子に座っているだけだった。とりあえず、出席だけ。
 知人たちと会話をする。
 自分のアイデンティティを否定されないように、相手を尊重しつつ会話をしている。僕はそれを聞いているが、頭には入ってこない。他人の言葉について思考する余裕はどこにもなかった。
 気分が悪くなってくる。僕は断りを入れて抜け出した。
 もう帰ろう、何をしてもだめだ。一刻も早く帰るのだ。そうすればきっと気分も良くなる。僕は自転車を探した。駐輪場をうろつく黒い影。人食い狼だ。いい加減にしてくれ! どうしてここまで僕を追いかけるんだ。泣きそうになりながら僕は歩いて帰ることにした。
 道中、何度も黒い影を見た気がする。この町は人食い狼で溢れていた。代わりに、人を見かけなくなった。いたのかもしれないが、僕が認識しきれていなかっただけの可能性もある。それほど、この町は人食い狼だらけだった。早く部屋に帰りたい。部屋に帰ってどうするのだ? 本を読むのか? インターネットに没頭するのか? それとも何もせずに寝てしまうのか? 僕が持っている選択肢はせいぜいその三つだ。読書は良い。教養を身に付けられる。しかし、その教養がなんになろうか。教養を得たところで、人食い狼から逃げられるわけではないのだ。インターネットは不毛だ。惰性的に気軽なコミュニケーションを交わし、手軽に承認を交換する。それは麻薬的な中毒性を持っていて、しかも何の意味も無いのだ。つまり、僕には有意義な選択肢が無いのだ。それでも帰らなくてはいけないのだ。
 なんとか部屋にたどり着き、ドアを開ける。人食い狼が部屋を埋め尽くしていた。鼻を床に近づけながらうろつくものや、椅子の上に座り込むもの、ベッドのシーツに潜り込んでいるものもいる。とにかく、部屋一面に人食い狼が、ぎっしりと、僕の命を奪う為に待ちかまえていたのだ。僕は呆然として立ち尽くしていた。人食い狼たちが僕を見据えた。僕が扉を閉めると、いくつもの衝撃がドア越しに伝わった。僕は逃げ出す。なんなんだこれは。どうなっているんだ。アパートから飛び出して、商店街をよろめきながら走る。そこら中に狼がいる、みんな人食い狼だ。
 商店街を抜けると、そこには大通りと、大通りに沿って流れている川に架かった橋がある。僕は橋の目前まで走ってきた。人食い狼の数は少ない。橋を渡ろう、この町から抜け出すんだ。
 橋の前には由紀が待っていた。
「由紀、狼が来てるんだ、逃げよう」
「うん、大丈夫、こっちだよ、おいで」
 由紀は僕の手を握って、川沿いの大通りを走りだした。一緒に走る。身体は鈍重な疲労感でいっぱいだったが、それでも足を動かさなくてはいけなかった。由紀の手のひらだけが僕の支えだった。
 どの道を走ったか、どれだけの時間走ったか、そんな事はもう覚えていなかったし、どうでもいいことだった。気が付けば僕は由紀の部屋にいた。由紀は部屋の鍵を閉めて、チェーンをかけた。僕はベッドに倒れている。身体に力が入らないし、頭もぼんやりしている。視界も定かではない。無様な格好だが、とにかく疲弊していたので身体を動かそうという気すら起こらなかった。由紀は麦茶の入ったコップを持ってベッドに座る。茶色がかったショートヘアが揺れた。
「ねえ、最近どうしちゃったの?」
「前にも言ったじゃないか、狼だ、人食い狼が町にいて、追われてるんだ。さっきなんて、僕の部屋に、何匹も何匹も……」
「人食い狼……」
 由紀は肩越しに僕の顔をじっと見つめた。
「ねえ、それって君の気のせいじゃないの? 人食い狼が町に出るなんて、聞いたことないもの」
 くらくらした。由紀の言葉で頭が痛い。全身の倦怠感がより重みを増す。じゃあ、僕が今まで追い回されてきたのは一体何だったっていうんだ。
「そんなまさか……」
 由紀は僕の隣にゆっくりと身体を倒した。視線は離れない。
「本当だよ。たぶん、全部君の気のせい。人食い狼なんていないし、君はきっと、ただちょっとだけ疲れてただけなんだよ」
 ぎゅっと抱きしめられる。体温が温かい。もう何も考えることが出来なかった。
「僕は……」
「いいんだよ、大丈夫。もう大丈夫だから……」
 由紀の腕に包まれて、涙が滲んだ。そう、彼女の言う通り、僕は疲れていただけなのかもしれなかった。
 人食い狼、それは僕の幻覚だった。不毛で価値のない生活で停滞してしまった脳が見せた幻覚だったのだ。恐らくそれは錯乱に違いない。疲労や不毛さや錯乱など、それらが悪かったのだ。そんな生活にはもううんざりだ。そうだ、ゆっくりと休もう。学校も一週間くらい休んで、体調を整えよう。ついでに部屋を綺麗に片付けたり、栄養のあるご飯を食べたりして……。幸い、一週間程度なら学校を休んだって大した影響はない。うん、そうだな、休むことにしよう。優しい由紀のことだから、その間もきっと僕に付き添ってくれることだろう。
 由紀はもぞもぞと動いて、僕の身体に覆いかぶさるように抱きついた。由紀の身体を、僕の身体の前面で感じる。しかし僕の意識はだんだん朦朧としていく。
 それから、どこかへ旅行に行ってみよう。さすがに由紀を連れて行くわけにはいかないだろうから、一人で、そうだな、海なんかがいい。静かで、落ち着いた場所へ行こう。そうすれば、きっと気も晴れるはずだ。
 由紀の顔がゆっくりと近付いてくる。身体をなすりつけるようにしがみついている。茶色がかったショートヘアは甘い香りがする。由紀の優しさだ。彼女は甘く、優しいのだ。
 唇が触れる。僕はあまりの寒気に彼女を思い切り突き飛ばした。由紀は抵抗できずに、鈍い音を立てながら机の角に側頭部を強打し、ぴくりとも動かなくなってしまった。違う、これは寒気じゃない、もっと得体の知れない感覚だ。僕は怖くなった。優しかったはずの由紀も、彼女の唇も、そしてこのおどろおどろしい感覚も、とにかく恐ろしかった。急速に全身に力が入った。僕は飛び起きて、由紀には目もくれずに部屋から逃げ出した。
 ただひたすらに走った。由紀は追いかけて来なかったし、人食い狼だってもうどこにもいない。それでも走り続けた。人通りのない川沿いの大通りを走り、小さな橋を渡って川を越え、その先に広がる見覚えのない町の中を走り続けた。一歩一歩踏み出す度に僕の思考は軽くなり、視界はまばゆく、呼吸とアスファルトを踏みつける音だけが鮮明に聞こえてくる。人々は訝しげに僕を横目で見たが、そんなのはまったく気にならなかった。全身が生気で満ち満ちていた。
 それにしても、由紀は死んでしまったのだろうか。思い切り頭をぶつけて、動かなくなっていた。それでも、きっと生きているだろうなと、明快になった頭を上下に揺らしながら考えたのだった。
 どれくらい走ったかわからないが、そろそろ限界だな、と感じた頃、ぐらりと前のめりに倒れ伏して、夜行バスのエンジン音と、マイアミの海の音を耳にした。軽快になった頭で、僕は映画のラストシーンを思い出したのだった。僕はダスティン・ホフマンにならなかったのだ!
 由紀! 君は甘美だった。とても甘美だった。僕の疲労も、錯乱も、人食い狼も、何もかもを優しく受け止めてくれるのだ、そういう性質なのだ! けれども、僕だって人間だ。彼女に身を委ね続けているわけにもいかない! それは緩慢な破滅にすぎない。僕が生活に従属してしまわない限り、いずれまた君のような存在が僕にすり寄ってくる時がやってくるに違いない。その時はきっと再び人食い狼の夢を見るだろう。それでも、僕は君を突き飛ばすのだ。十分に接近し、その戯れを堪能した後に、僕は君を突き放すことだろう。

2013/01/09

良い映画


国別に気に入った順


真夜中のカーボーイ(1969)
セント・オブ・ウーマン/夢の香り(1992)
スティング(1973)
情婦(1957)
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ(1984)
俺たちに明日はない(1967)
タクシードライバー(1976)
ハスラー2(1986)
ベルフラワー(2011)
明日に向って撃て!(1969)
カジノ(1995)
ゴッドファーザー PART Ⅱ(1974)
ゴッドファーザー(1972)
大脱走(1963)
オン・ザ・ロード(2012)
スカーフェイス(1983)
素晴らしき哉、人生!(1946)
トゥルー・ロマンス(1993)
卒業(1967)
ジャンゴ 繋がれざる者(2013)
アメリカン・グラフィティ(1973)
真昼の決闘(1952)
シッダールタ(1972)
カッコーの巣の上で(1975)
ディア・ハンター(1978)
トム・ホーン(1980)
ハスラー(1961)
イントゥ・ザ・ワイルド(2007)
夜になるまえに(2000)
ショーシャンクの空に(1994)
パピヨン(1973)
レスラー(2008)
ブラック・スワン(2010)
バニラ・スカイ(2001)
遠い空の向こうに(1999)
ガス燈(1944)
エデンの東(1955)
エレファント(2003)
さらば冬のかもめ(1973)


ヴァン・ゴッホ(1991)
そして僕は恋をする(1996)
シベールの日曜日(1962)
禁じられた遊び(1952)
太陽がいっぱい(1960)
ホーリーモーターズ(2012)
モラン神父(1961)
赤と黒(1954)汚れた血(1986)
トリコロール/赤の愛(1994)
ゴダールのマリア(1984)
魂を救え!(1992)
二十歳の死(1991)
クリスマス・ストーリー(2008)
真夜中のピアニスト(2005)
舞台の獣(1994)
勝手にしやがれ(1959)
エコール(2004)


グレート・ビューティー(2014)
若者のすべて(1960)
山猫(1963)
道(1954)
ベニスに死す(1971)
太陽はひとりぼっち(1962)
革命前夜(1964)
自転車泥棒(1948)
アルジェの戦い(1966)
ベルトルッチの分身(1968)


BOY A(2007)
BLUE(1993)
T2 トレインスポッティング(2017)
トレインスポッティング(1996)
月に囚われた男(2009)


バーダー・マインホフ(2008)
セブンス・コンチネント(1989)
ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア(1997)


父、帰る(2003)
サクリファイス(1986)
鏡(1975)
僕の村は戦場だった(1962)
デルス・ウザーラ(1975)
エルミタージュ幻想(2002)
ストーカー(1979)

西
ミツバチのささやき(1973)
サルバドールの朝(2006)
海を飛ぶ夢(2004)


永遠と一日(1998)

ハンガリー
君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956(2006)


アニマル・キングダム(2010)
明日、君がいない(2006)

メキシコ
BIUTIFUL ビューティフル(2010)
ホーリー・マウンテン(1973)

ブラジル
モーターサイクル・ダイアリーズ(2004)



無法松の一生(1958)
天国と地獄(1963)
切腹(1962)
安城家の舞踏會(1947)
地獄門(1953)
東京物語(1953)
乱(1985)
二百三高地(1980)
ヒポクラテスたち(1980)
泥の河(1982)
生きる(1952)
リリイ・シュシュのすべて(2001)

アニメ
THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!(2014)
ねらわれた学園(2012)
この世界の片隅に(2017)
映画 けいおん!(2011)
劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語(2013)
海がきこえる(1993)
銀河鉄道の夜(1985)
仏陀再誕(2009)
AKIRA(1988)