2015/12/02

聖母を巡る人々

聖母を巡る人々

 ナザレのイエスが磔刑に処せられ、聖母マリアによる三日間の献身的な添い寝によって復活を遂げたのは厳然たる史学的事実である。それゆえ、極めて優れた文明を有する現代人が添い寝の無人化に成功した際、それが驚くべき速度で市民の生活に広く普及したのは当然の帰結と言えよう。
 フリードリヒ・シェリングの『神的自由の本質』によって神の死が宣告され、テロスを失った文明が爛熟期に至り、茫漠たる砂漠と比喩されたあの忌まわしい時代を超克させたのは、技術革新でも経済でも政治でも哲学でもなく、添い寝であった。人々は添い寝を喜んで迎え入れ、神の恩寵として日々の仕事に取り入れた。同時に浮かび上がる添い寝手の不在の問題も、添い寝の無人化によって事なきを得ることとなる。つまり、孤独に苦しむ者も、平等に添い寝を遂げる事が可能になったのである。

 日本有数のメトロポリスであるK-メトロの一区画にある九畳ばかりの部屋の、無機質な白い壁に囲まれたベッドの上に、今日も添い寝手が送られる。ベッド脇の添い寝供給口から排出される、人肌に限りなく似せられたそれは、白く縦長い抱き枕のような形状の頭部からスウスウと穏やかな音を立てながら生温かい送風を発し、また優しく吸引する。人々はこれを抱き、安眠と神的幸福に浸るのである。
 現在の全世界に普及している無人添い寝手のほとんどは、ローマ教皇領内の大規模工場で大量生産され、一台一台丁寧にローマ教皇によって祝福されたマリアⅡである(なお、この祝福も無人化されている)。こうして生産され祝福を受けたマリアは、毎年の復活祭の日に全世界へ輸送され、各国の自治体が管理する聖体保管所にストックされ、インフラの一つである聖道を通じて各市民に一日一体が届けられるようになっている。マリアの配達の効率化の為に、個人所有の一戸建て住宅は原則として禁止され、超大規模集合住宅への居住が義務付けられた。やがて超大規模集合住宅は商業施設や工業施設を取り込んでいき、メトロポリスと呼ばれる、あるいは単にメトロと呼ばれる、巨大複合建築都市という一極集中化の極地のような様相へと変化していった。
 僕は本日のマリアⅡを眺めていた。午後九時、マリアが各住居に届けられる時間だ。穏やかな寝息が聞こえる。今日はマリアⅡを抱きしめながら寝る気分ではなかったが、メトロ居住者にはマリアの使用が義務付けられているのでやむを得ない。破れば罰則は免れない。僕は透明なウオッカをグラスに注ぎ、煙草に火を点け、眠気が来るのを待った。
 音の無い静かな夜だった。極めて高い防音性能を有する建築材が発明されたのは何十年前だったか、今では部屋で和太鼓を叩こうが隣室に振動がわずかでも伝わることはない(この建築材の開発が添い寝をする際の静寂の重要性に関連して行われたのは言うまでもないだろう。禅定や瞑想の研究の蓄積は、秘蹟の一種である添い寝に強い影響を与えた。添い寝における密接な相互関係は、外的要因によって乱されるべきではない。不純物の存在しない二者関係を通じて我々は内的世界を探究し、同時に神聖な恵みを拝受するのである)。都市構造から生活様式まで、全てが添い寝の為に用立てられた都市。酔いが回る。最後に本当の日光を浴びたのはいつだったろう。僕はマリアの横で太陽信仰にも近い念を抱いた。
 それでも、朝が訪れる度に僕は敬虔な信者に戻る。ベッドから身を起こし、パンと目玉焼きとコーヒーをテーブルに並べ、厳粛な心持ちで祈りの句を唱える。主よ、主の恵みによりて日々の糧を祝福したまえ……。
 朝食を終えると、煙草を一本吸い、昨晩のマリアを専用のダストボックスに捨て、シャワーを浴びて身なりを整える。身なりを整えるというのは己を律する瞬間だ。洗礼の秘蹟にも似ている。洗礼では、幼児は肉体を水に浸されて罪が清められ、再び着衣文化での生活に戻ってゆくのだ。あらゆる罪をあがなった者は、世俗で罪を犯すことを避ける。外出の為に着衣する僕もまた、罪を犯さずに清い肉体を保たなくてはいけない。日々の行いのすべてが清くあるよう、僕は祈った。
 学園地区は学生たちの賑やかさに溢れていて、その中を教授たちが歩く様子はどこか浮いていた。僕はその学生の群や教授にも当てはまらないような居心地の悪さを覚えながら、いくつかの講義を受けた。教授と実存的信仰に関する表層的な議論を交わした後、K-メトロ最大の歓楽街の第四通りを歩きまわった。日没前の第四通りは人影もまばらで、どこの店も準備中の札を下げていた。旧世代の日本文化を模したであろう石橋を渡る。石橋が跨いでいる川もまた旧世代に愛された一級河川を模した人工河川で、透明な真水が余所余所しく流れていた。
川沿いから少し北にあるバーは、日中も営業しているせいか、学生たちの溜まり場になっている。カウンターで泡の多いビールを飲んでいた友人のNは僕に気付き、ぐいとジョッキを煽り、スコッチを二杯頼んだ。
「スコッチでよかったろう?」と彼は笑みを浮かべた。
「それとミックスナッツを」
 僕がカウンターの椅子に坐ると、カウンターの向こう側でなみなみとスコッチが注がれた。安酒だが、気前が良いのは学生の間で好評だった。僕は胸ポケットから煙草を取り出して火を付けた。
「問題はなあ」と彼は突然話し始めた。「なあ、わかるか、マリアなんてがらくたが世の中に広まったせいで、本当の添い寝の意義が失われちまってんだ」
 僕は頷いた。
「どうにかして女を物にしなくちゃならん。火急の問題だ。大衆ってのはどうして本当の救済に興味を持たないんだ?」彼はよく冷えたロックのスコッチを喉に通した。「お前は分かってる奴だ。教皇庁は添い寝を無人化して、全世界にマリアを売りまくってる。何のために? もちろん、利益だ。今のキリスト教は商業主義に堕落してるってわけだ。そんなところに本当の救済があるわけがないんだ。だというのに、俗人どもは現状に甘んじて、救済の道を辿ろうとしない……」Nは普段より饒舌で、酔いが深いのは明白だった。「真理ってのはいつだって隠されているんだ。アレーテイアを根源的に可能にしているものはレーテーだと説いたのは誰だったろう、ともかく俺たちは教皇庁と戦わなくてはいけない……俺の父は愚かな人だった。ただ毎日真っ白い蝋燭を作るだけの人間だったんだ。少しの意匠もない、白い燃える棒を。教会の他に納品先はなかった。そんな、ほんの少しの価値しかないような人間。こういう人間たちが下らない権力を支えているんだ」
 店員はNの激しいマリア主義批判を気に留めず、忙しなく色々なカクテルを作ったり、ロックグラスに氷とウイスキーを入れたりしていた。相槌を打ちながら、僕はその手つきをじっと観察した。男性らしいしっかりとした手が、トールグラスに細かく砕かれた氷を入れ、バカルディ・モヒートとソーダを注ぎ、カットライムを軽く絞って氷の上にそっと載せる様子。炭酸が逃げないよう、たった一度だけマドラーでステアすれば出来上がるのだ。多くのモヒートがその手で作られていった。学生とはモヒートを好むものなのだ……。
「お前、俺が口先ばかりのほら吹きだと思ってるだろ? いや否定するな、そういう顔をしてる。だが実際の所、俺は反マリア主義の結社に入っているんだ。一つの旗のもとに集う同志というのは実に良い。全く無関係な者同士に流れる、互いの腹を探り合うのを諦めて勝手な思いなしで会話をする時の、気が狂いそうになるよそよそしい空気なんてのは全く無い。最も人間的な関係がそこにはあるんだ。なあ、お前も結社に入らないか? 近い内に大きな動きがある。人類をマリアから解放する偉大なる戦士になるには今しかない」
 僕はNの輝かしい瞳から目を逸らし、何と答えるべきか思案した。店員はグラスを洗い、布の上に一つ一つ並べていた。Nは愚直ゆえに眩しく見える男だった。
「ああ、まあ、興味が無いわけじゃない。反マリア主義という点では同意できる」
「そうだろう、じゃあ一度うちの集会を見てみるといい。きっと気に入るだろう。何なら今から行くか?」
 僕が頷くのを見て、Nは満足気な笑みを浮かべ、僕の分まで勘定を済ませた。ささやかな身売り。僕は何も言わずにNの後ろを歩き続けた。
行き先は第三十三居住区だった、老朽化と居住区の増設の影響で住人が激減し、しばしば非行に走る若者の溜まり場と化すことで知られている居住区。ここには聖道すら整備されていない。暗い廊下を歩きながら、僕は自分がついぞ関わらないに心掛けていた世界に足を踏み込んでしまったのをはっきりと理解した。集会所はここの最南端にある、とNは言った。彼の中では、僕はすっかり結社の一員みたいだった。
 集会所では七人の男女がくつろいでいた。視線が一挙に集中する。Nは誇らしげに僕を紹介した。歓迎の言葉。前髪で左目が隠れた男がいくつかの質問を投げかけ、僕はそれに答えた。背の低い女は笑い声を上げ、隣に座るように誘った。言われるままにソファに座ると、後は他愛もない談笑が始まった。和やかな空気。
 背の低い女は僕の肩に体重を寄せながら色々なことを話した。彼女は毎日がマリアに支配されているのが気に食わず、本当の自由を求めて結社に加入したという。
「結社に入ってから、本当に多くのことを発見したの。自分が立っていた場所が一体どういう所なのか、ようやく分かるようになった。本当の添い寝って、人と人がやるものだって知ってた? 互いが互いを求め、同意の上ではじめて成り立つの。マリアとの添い寝には私の意思なんて存在してないのよ。そんなの冷たすぎるわ」
「なるほど」
「冷たい添い寝ばかりしているから、現代人は他人に無関心になってしまうのかもしれない。馬鹿げた考えだと思う? でも、本当の添い寝をしている私たちはこんなにも人間的なのよ……」
「じゃあ、添い寝をしたことがない僕は非人間的なやつなのだろうか?」
「きっとそうよ、でもあなたには資質がある……ねえ、この後、どうかしら。私が、あなたを人間にしてあげるわ」
 彼女は僕の膝に手を置いて、顔をじっと覗き込んだ。いくつかの考えを巡らす。咎ある、欠落ある人間としての僕の人生について……。返答は決まっていた。恐らく、何年も前から決まっていたのだ。

 彼女に誘われるまま部屋に上がると、彼女はグレープフルーツジュースの入ったコップを渡してくれた。よく冷えていた。一口、二口と喉を通したところで、彼女の手が太もものあたりをなぞるように這い上がってきた。彼女の指が鼠径部、へその傍を通って、薄い胸板を撫で回している間に、彼女はいつの間にか下着を外そうとしながら、顔を押し付けるように僕をベッドへと押し倒した。
 やめてくれ、という声をひねり出すと、彼女は何もかもを承知しているような優しい笑顔を浮かべた。添い寝をするんじゃなかったのかと怒鳴ると、彼女はすっかり醒めた表情で僕の隣に横たわった。僕は安心して眠ることにした。部屋を静寂が満たす。僕は厳粛な心持ちになり、秘蹟を全うすることに全神経を向けた。
この瞬間、僕は添い寝をなし得なかった者たちよりもずっと高い所に辿り着いたのだと思った。僕は罪深き人類に勝利したのだった。人類史のすべてが僕のもとで精算されてゆくのがはっきりとわかった。愚かしい人類よ、と僕は心の中で嘲るように呟いた。歪められた秘蹟に惑わされる愚かなメトロの人々……真の救済へと至ることが出来るのは、何が真であるかを見定める目を持つ者だけなのだ……僕は目を開いて、僕を救済へと至らしめるその者をしかと目に刻んでやろうと思った。
 しかしながら、どういうことだろう、僕は絶望した。肉だ、そこには肉があるのだと絶望した。なんという鬱陶しい吐息、なんという浅ましい肉体、なんという見下げた魂だろう、祈りの対象に形象があるということが、これ程までに耐え難いものだったとは思ってもなかったのだ。何の値打ちもない肉……たとえそれに個別の人格と歴史と顔があろうとも、それ以上のものにはなり得ない……僕は絶望した際の習慣通りに祈りの句を心の中で唱えようとしたが、祈ることすら能わなかった。果たして、本当に聖母マリアは死せるキリストに添い寝をすることが出来たのだろうか? それが聖母たる資質なのだろうか? あるいは、添い寝は復活に関して実際的な影響を及ぼしていなかったのではないか? 大いなる懐疑に囚われてしまった僕は、夜明けを待つ他に無かった。たとえ彼女が肉であろうが、添い寝の秘蹟性が剥ぎ取られようが、彼女を拒絶する理由には値しない。これは僕の精神と信仰に関する決定的な震撼に過ぎないのだから……。

 慎重を期して、彼女が寝息を立て始めてから二時間ばかり待ち、部屋を抜け出すことにした。肉からの脱出。居住区間の連絡路は打ちっぱなしのコンクリートに幾つかの電灯が照っているだけであった。長く伸びる灰色の空洞に、僕はすっかり気が滅入ってしまっていた。煙草に火をつけ、白煙を吐き出すと、いよいよ自分が永遠に救われることのない大罪人のように思え、一刻も早くあの九畳ばかりの部屋の、無機質な白い壁に囲まれた空間に逃げ帰りたくなった。救われぬ者は狭い部屋に閉じこもり、可能な限り窮屈に生きるべきなのだ……。

   *

 K-メトロの聖体保管所が反マリア主義者らによって占拠され、持ち出された大量のマリアが中央街の大教会前の広場で焼却されたのは、僕が結社に勧誘されたおよそ半年後のことだった。あれから反マリア主義者の熱心な活動でその数は激増し、大規模な反乱を起こす程にまで成長していたのであった。その日も僕は朝食後に煙草を一本だけ吸い、シャワーを浴び、日々の行いのすべてが清くあるように祈った。それから大教会前広場の近くのカフェ・クローナーでレモネードを飲み、新聞を広げ、拡声器越しのNの脱マリア宣言を聴き、煌々と燃えるマリアの山の前で警官隊と衝突するN達をガラス越しに眺めた。マリア主義も反マリア主義も、すべて他人事のように思われたが、それでもNは一人の英雄として目に映った。支配より解き放たれよ、支配より解き放たれよ……。
 僕はカフェ・クローナーの隅にNの父親が座っているのに気付いていた。彼はNの騒動を目の当たりにして、一体どんな心持ちだろう? どういう面構えをするべきだろう? 僕は彼の顔を見なかった。ただ、蝋燭作りに向かう前のささやかなコーヒーの一杯を、ただ安らかに味わわせてやりたいと願うばかりだった。彼の無骨な手が作る簡素でしっかりした白い蝋燭は、きっとこの大教会にも納品されるはずなのだ。彼はマリアの炎が尽きるまで席を動かず、とうに飲み終えたコーヒーカップの縁を幾度も指でなぞり続けた。騒ぎが収まると、彼は古びた革の鞄を小脇に抱えてカフェ・クローナーを去った。大教会に背を向け、日々の仕事へと往くのであった。
 翌日からK-メトロのマリア供給は完全に停止した。一部の熱心なマリア主義者を除いて、多くの市民はマリアの無い生活を、さも無意識の内に待ち望んでいたかのように受け入れた。K新聞社は結社の解散を報道した。Nと第四通りのバーで落ち合ったのはその十日後で、彼はいつにも増して泥酔していた。
「俺はやった、成し遂げたんだよ。だが、人々は本当に生身の添い寝を求めていたのか? いやに身の振り方が軽々しいじゃないか」Nはいつもの自問自答するような口調で話をした。「俺は自分の功績が信じられなくなってしまった、父が俺に目をやる度、俺はどうしようもなくいたたまれない気持ちになる……咎を責めるようなあの眼差し! お前がくだらない蝋燭なんかを作ってる間に、俺は革命を起こしたんだ……」
「革命が、」逡巡の末、僕は重々しく口を開いた。「革命が、革命であるというだけで肯定されてはならない……それに、日々の仕事を軽んじるのは、それはやってはいけないことだ……革命というのは、常に前夜でなくてはならない……」
「俺を否定すると?」
「反マリア主義という点では君に共感できる、というのはそういうことだよ。稚拙な反骨心に起因する、馬鹿げた革命欲さ。だから僕は結社に加わろうとしなかったんだ」
「しかし、現にあの女と添い寝をしたじゃないか」
「脳足りんのあばずれ女とな……」
「何も見出せなかったと?」
「絶望を見出したよ。それと、虚しい勝利を」
「それは傲慢だ、他人を巻き込んでおいて、勝手に絶望して諦観の念に浸るだなんて、エゴにも程がある!」
「全くその通りだ。僕は僕の非を認めよう……それで、認めて、僕はどうすればいい? 僕よりずっと大規模な騒動を引き起こし、苦悩している君は?」
「俺は過ちを犯したとは思っていない……間違いなく一つの前進ではあったんだ、だが、その先が見えないんだ……」
 深い沈黙。行き詰まりの空気だけが僕らの間に流れていた。僕はどんな非難も受け入れるつもりだった。救済の光と愚昧な勝利への渇望を取り違えてしまったのは事実なのだ。失態を変質させるのは、何者にも許されない……。
「シラけた面だな、N」いつの間にか前髪の長い男がNの横に座っていた。第三十三居住区の一室で僕に質問を投げた男だった。「添い寝の相手が見つからないのか? 今から第四通りに出て声でも掛けるか? お前は今や有名な革命家だ、相手には困らないだろう」
「俺は今でも救済というものを信じている、だから下卑たふうに言わないでくれ……」
 男は面食らい、少しの間を置いて、くつくつと嗤い声を上げた。
「ああ、そうか、お前はそういう奴だったな」人を値踏みする、あの最も忌むべき暴力的な目線を男は向けた。「何かを信じて止まない、そしてそれを希求し続ける……そういうのが好きな、ばかな奴だ。いいか、誰も真面目に救済なんて考えちゃないんだよ、N。そういうのを見てると、こっちが恥ずかしくなる。みな、口実の為に添い寝をするんだ。わかるだろ?」
「口実、一体何の口実だって言うんだ、おい、言ってみろ!」
 Nは男の胸ぐらに掴みかかって怒号を上げ、腕を振りほどき余裕げに乱れた襟を整える男の頭を硝子の灰皿で殴り飛ばした。耳を塞ぎたくなるような鈍い音。吸殻と灰が舞い、低い悲鳴が上がった。男は長い髪を血糊で濡らし、塵と灰まみれの床にぶっ倒れた。店員がカウンター越しにNを捕らえようと腕を伸ばしたので、僕は慌ててNの腕をひっ掴んで第四通りの人混みに飛び込んだ。
 僕は何も言わなかった。Nには何一つ非難されるべき点が無かった。とはいえども、安価な慰めの言葉を口にするだけの正当性があるとも思わなかった。もう、金輪際こういう運動とは関わりたくない、とだけ思った。添い寝だの、救済だの、いつまで僕たちは振り回され続けないといけないのか? そう考えると、途端にNの英雄的な勇姿や肉への絶望などの心掛かりが、みな重みを失い、実にくだらない事のように感じられたのであった。同時に、これがある種の心理的な逃避であるのも分かっていたが、そうした分析すら無意味な行為であった。
僕は帰る、と伝えると、Nはすんなりと頷いた。数十歩進み、ふと振り返ると、Nの前を自動式のゴミ収集車が通過していった。プレス機構がゴミを押し潰しながら回転する音。僕は狭い部屋の中に収まった。Nはこれからどうするのだろう、とベッドに寝そべって考えた。マリアのいない、広々としたベッドの上で。きっと彼はもうK-メトロにはいられないだろう、顔が知られすぎてしまったのだ、彼はメトロの外でささやかな日々を営むのだろうか、それとも他のメトロで再び反マリア主義活動を続けるのだろうか……。

 翌朝、僕はパンと目玉焼きとコーヒーをテーブルに並べ、厳粛な心持ちで祈りの句を唱えた。主よ、主の恵みによりて日々の糧を祝福したまえ。朝食を終え、煙草を一本吸い、シャワーを浴びて身なりを整え、大学で愚にもつかない講義を聴講し、カフェ・クローナーでレモネードとパプリカチーズを注文した。Nの父があの日と同じ席でコーヒーを飲みながら、午後に備え午前の仕事の疲れを少しでも癒やそうと煙草を呑んでいた。
Nが行方不明になってからも、彼の習慣は何一つ変わらなかった。朝と昼にコーヒーを飲み、昼に煙草を一本だけ吸った。彼の姿を見る為に、僕はカフェ・クローナーに毎日通うようになった。レモネードとパプリカチーズの客になったのだ。大教会を眺めるのが一つの愉しみになった。

 短くなった煙草を灰皿に押し付け、勘定を終えて再び仕事場へと戻ってゆく彼の背中を僕は見送った。

(2015年04月執筆、『SOINEX』所収、同年05月04日第二十回東京文学フリーマーケット頒布)

天使の位置

天使の位置

 僕は醜い男だった、乱痴気騒ぎの中、僕は座敷の畳の上でうずくまって、狂人のような呻き声を上げた。つい先程まで僕と談笑を交わしていた女の子は姿を眩ませていた。まあ、そうだろうと思った。一枚の静謐な天使の羽根を幻視した。すぐさま幻視とわかったのは幸いだった。身体を起こして煙草をつけながら、酒宴の騒ぎを目に入れぬように火種から上る白い煙を目で追った。はやくこの場を抜け出したかったが、輪を乱すわけにもいかず、何本も煙草に火をつけた。餞別気分で参加したはいいが、やはり退屈なものは退屈だった。篠原は言った――俺は頽廃が好きなんだ、と。
「どうしてもそれから逃れられない、心に深く根を張って、引剥がそうものなら僕の全部まで崩れてしまうのさ」
 ちらと煙から彼に視線を移すと、陶酔した微笑を浮かべていた。そうか、と僕は返した。煙のうねりのほうが面白いな、と思った。篠原は続ける。
「世の中は俺に生きろ生きろと言う、生命を手放しで神聖視して、そのくせ毎年二万人のイカしたレコードを叩き出す。ついでに俺はモテない。更に働きたくもない。頽落まっしぐら、それ以外の何があるっていうんだ」
 色々あるだろう、見ろ、煙草の煙はこんなにも面白いぞ。言えるはずもなく、わかるよ、と言わんばかりの笑い声をくつくつと上げた。白煙の精緻な流線は絡まり合いながら空調に流されていく。篠原はグラスのブラックニッカをぐいと煽って、にたにたと笑みを浮かべた。
「――まあ、ともかく、だ。めでたいじゃないか。これは祝賀会だよ。我々アニメ研究会は邪悪なるサークラ女に勝利した。あの、クソったれの、あばずれ女の淫猥な誘惑に屈せず、それどころかますます団結を深め、徹底的に糾弾し、叩き出して、見事に偉大なる勝利を収めた!」
 篠原に呼応して、部長の西田が唐突に立ち上がる。
「そうとも! そもそも、女にアニメの本質が理解出来るわけがなかったのだ! あのビッチは、ただ俺たちモテないオタクを誑かして、肉欲と醜い承認欲求を満たすための道具に仕立てあげようとしていただけだ! そもそも我々アニメ研究会は――」
 場は大いに盛り上がった。歓声が飛び交い、アニメ研究会の面々は互いに自らの勝利を誇らしげに讃え合った。僕はじっと煙を目で追っていた。篠原が俺に顔を寄せる。
「なあ、大宮もどうせこれを機にサークル辞めるんだろ? 俺もさ。さっさとこんな鬱陶しいサークルなんて辞めちまおう。まっぴらごめんだぜ。こんな所以外にだって、いくらでも俺の居場所はあるはずだからな」
 僕は内心を読まれていたのをやや不愉快に思いながらも首肯した。篠原だってついさっき飯田を、例の邪悪なるサークラ女とかいうのを散々バッシングしたくせに、とは当然ながら言えなかった。これが彼なりの処世術なのだ。外面は誰にでも満遍なく良く、その為に内密に人を非難するのを躊躇わない。その語り口調も絶妙で、単なる罵声ではなく聴者の賛同を誘うような軽妙な毒舌だった。
 威勢の良い一本締めで祝賀会はお開きとなった。部長の西田らにカラオケの誘いを受けたが、篠原が手際よく断ってくれた。篠原と僕は帰路についた。僕はバスを待ってる間、鴨川の冷え切った流れを眺めて煙草を吸った。

 メイドを見た。メイドさんだった。気味が悪くなる程に白い肌に、ヘッドドレス、フリルの多いシンプルな白黒のメイド服、黒のレース付オーバーニーソックスが映える。バスを降車したすぐ傍に直立し、表情を変えずにじっと見つめてきた。面食らったが、一度大きく息を吐くと冷静さを再確認できて、僕は気に留めないことにして早足で去った。
 ところで、京都市内にはメイド喫茶は存在しない。正確には、メイド喫茶兼メイドバーや戦国喫茶のようなものはあるが、単にメイド喫茶として営業している店舗は存在しない。有用な人材はみな大阪の、とりわけ日本橋などに流れていってしまうらしい。西田の熱のこもった説だ。だから市内でメイドさんなんて見たくなかった。メイドさんは不吉の象徴だ。
 メイドさんはしばらく僕の後ろを付け回しているようだった。メイドさんの尾行とは拙いものだ。僕は苛々した。部屋に戻ってもまだいた。冷蔵庫の陰からこちらを覗き見ていた。うんざりした。いい加減にしろ、と叫ぶと、ビクリと身体を震わせてから部屋を立ち去っていった。僕は気分が良くなった。ウォッカの瓶を掴んで、胃の底で淀んでいる酔いを焼き払うように、一口、二口と飲んだ。こみ上げてくる嘔吐感を煙に巻こうと思い、煙草を吸った。次第に思考が混乱して、僕は硬いベッドに倒れた。

 幾日か過ぎ、春休みで狂った曜日感覚を部屋で満喫していると西田からの着信があった。応答すると、サークルの例会に顔を出せと言われた。なるほど、今日が木曜日なら例会が行われる日で、既に活動が始まっている時間だった。篠原はいるか、と尋ねると、就活の説明会で断りが入っていると言われた。都合の良い言い訳だと感心した。俺は潔くもうサークルに参加するつもりはないと言った。電話越しに鼻で笑う音がした。僕は携帯をベッドに投げて、小説を書こうと思った。
「あーあ。ハブられちゃいましたね」
 ベッドにちょこんと座っていたメイドさんが僕の携帯を拾いながら言った。
「というか、自ら進んで孤立しちゃったって感じですね」
 僕は何も言わずに煙草をつけた。
「馬鹿馬鹿しいと思いませんか? そうやって居場所を憎んで棄てて、挙句の果てには誰も望んでないのに小説なんか書いて自分の愚行を美化して……」
 僕は当然苛ついていた。
「なんなんです、あなたは。何がしたいんです? ……また無視ですか。別に構わないですけどね。まあ、私はメイドですから、あなたがどうしようがあなたに従うだけなので。いえ、皮肉ってわけじゃないです。ただ、なんというか、ええと、そうですね、忠告というか、耳に留めておくくらいのことはして欲しいというか、その程度のものなので、あまりお気になさらずに」
 そう言ってメイドさんは立ち上がり、キッチンで料理の支度をし始めた。頭が痛い。言われた通り、僕は気にしないようにした。小説は書けそうにもなかったから、録り溜めていたアニメを観た。今期は良いアニメが多いな、と思った。
 同じ部屋にメイドさんがいるというのに耐え切れず、ろくに中身の無い財布をジーパンのポケットに入れて喫茶店へ向かった。コーヒー一杯300円で、客が少なく落ち着いた店内。よく行く店だった。奥の席で篠原が本を読んでいた。サロメだった。悪趣味なものを読んでいるな、と思った。
「やあ、大宮」
 僕は挨拶を返しながら篠原の隣に座り、コーヒーを注文して灰皿を手元に寄せた。サイモン&ガーファンクルのボクサーが流れていた。
「あれからどうだい、俺はもう次のサークルはどこにしようかと見当をつけているところだよ」
 身の軽い奴だな、と思った。次のサークルでも上手く立ち回っていけるだろう。
「次はメディ研か写真研かな。まあ、どちらも無難といったところか」
「写真研って、飯田がいる所じゃなかったっけ」
「ああ、そういえばそうだったかな、そういう気がするなあ」篠原らしくないわざとらしい返事だった。「いやね、実はだね、これは隠しておこうと思っていたのだけれどね、飯田にアニ研を辞めるように催促したのは俺なんだよね。まあなんだ、要するに狙ってるんだよ、しょっちゅう飯田の家に泊まるなどしてね」
「ああ、そっか。そういうことか。なるほど、首尾よくやれたってわけだ」
 篠原は俯いて、自嘲気味に笑った。
「どうも俺のことを軽蔑するような言いぶりだね」
「いやいや、まさか……君は飯田の窮地を救って、ついでに自分の願いを叶える為の地盤を固めたというわけなんだから、素晴らしいじゃないか。良かったと思うよ」
「そうかな。君が本当にそう思ってると良いのだけど……ともかく、飯田は良い女だよ。顔は端正で美しく、顔だって広いから、色々と融通が利いて助かるしね」
「融通って?」
「たまにね、ホラ、違法的なアレがね」
「ああ……」
 僕は特に言及しなかった。沈黙が訪れた。僕は熱いコーヒーを僅かずつ啜り、篠原はサロメに目を落としていた。僕は篠原に怒っていた。西田らと肩を組んだふりをしておきながら飯田には良い顔をして気を引こうとする彼の身の変わり様が癪に障っていた。しかし、それはまだ構わない。僕が勝手に癪に障ったと感じて苛立っていればそれで済むのだ。飯田に言い寄るくせに西田たちの前ではあばずれ女呼ばわりするのだって、飯田に同情を寄せることはあっても、それ以上のものはない。けれども、何より、そうした狡猾さの同士に僕を選ぼうとしたのが許せなかった。西田たちはまだいい。彼らの行為には眉をひそめざるを得ないが、それでも誰も裏切ってなどいない。飯田だって本当に西田たちを誘惑したかどうかの真偽はともかく、僕には関わりのないことだ。しかし、篠原、どうして君は僕に腹の中を明かそうとするのだ。僕は誰にだって怒りなんて覚えたくはない……僕も西田たちと同様に賢く見捨ててくれればそれでよかったというのに……。
「大宮、君のほうはどうだ」
「僕は、何もないよ。ずっと部屋にこもってる。たまに食糧を買いに外出するくらいだ。おかげで気が狂ってしまったのかもしれないけど、よくメイドさんを幻視する」
「ワハハ、なんだそれは。可笑しいな」
「な、マジでビビるんだよな、視界の隅にメイドさんがいるって中々凄い光景だぜ」
「それでそのメイドさんに人生救ってもらうとか? 三文ラノベだなあ」
「最高に幸せそうだけどね」
「確かに」
「でもさ、そのメイドさん、僕に文句を言ってくるんだ」
「生活がだらしない、とかか?」
「いや、それが僕がサークルを辞めて独りぼっちになってるのに文句を言ってくるんだ。お前は何がしたいんだーって。幻覚にそんなこと言われるんだから嫌になってしまうよ」
「それはキツいな。精神疾患かなんかじゃないのか」
「まったくだよ、人生を救うとかそういう浮ついたものですらないぜ……」
 篠原は急に僕の顔をじっと見た。
「お前、でも本当はそういうのを望んでたんじゃないのか?」
「そういうのって、だらしのない自分を叱責してくれる立派な女性ってことか? まさか、勘弁してくれよ、そんな惰弱な願望なんて持ってないさ、そう信じたいね」
「誰だってそう信じたいとも」
「僕が僕を責め立てられたいと望んでいるだと、あれほど望んでこうなったというのに? 容易には受け入れがたい洞察だよ。まったく受け入れがたいね」
「まあそう気を荒立てないでくれ、悪気があったわけじゃないんだ。単なる俺の思い付きに過ぎないんだ、気を悪くしたのなら謝るよ」
「いや、篠原が悪いってわけじゃない、ただ、自分にぞっとするような恐ろしさを覚えただけだよ、こちらこそすまんね」
 再び沈黙が訪れた。僕は三本目の煙草に火をつけることしか出来なかった。おぞましい、なんとおぞましいことであろうか、僕がそのような人間だったと暴かれることがこれほどまでに恐怖だったとは、それが例え真実でなかろうとも十分に恐ろしく、もし真実であろうものなら気が狂ってしまいそうだった。煙を吸い尽くす他に手立てがなかった。
 煙草を吸い切ってコーヒーを飲み干し、篠原に別れを告げて店を出た。メイドさんが立っていた。僕は恐ろしさを通り越して激しい怒りを覚え、自転車を持ち上げて叩きつけるように投げた。
「きゃっ」
 けたたましい音を鳴らして自転車はアスファルトにぶつかり、からからと車輪は空転した。メイドさんは呆然と僕の顔を見つめていた。メイドさんの無邪気さゆえの呆然とした表情に耐えられず、スッと熱が冷めて、早足で帰宅した。メイドさんはそれでも健気にも僕の後ろをなぞるように歩いていた。
 椅子に座り込んで、ウォッカを煽った。メイドさんは布のクッションを床に置いて、ちょこんと上に座り込んだ。
「どうしてあんなことをしたんです? 私が気に食わなかったんですか?」「外で話聞いてました。私の発言が不快だったのでしたら謝ります。お願いですから、あのような乱暴なこと」「私がどうしても嫌いだと言うのでしたら、私、ここを出て行きます。そうでなければ、私はぜひともここに居たいと思ってるんです。心からお慕いしているんです」「でも、それでも私はあなたが間違えてるって思ってます。あなたは悪い人じゃない、それどころかとても良い人格者だと思ってます。でも、そうした人も過ちを犯すことだってあるんです。そういう時って、ちゃんと過ちを過ちとして扱うべきだと思うんです、私はそういう意図であなたに言ったんです、あなたを攻撃する為じゃなくて――」
 メイドさんが発言する度に自分の精神が徐々に支配欲へと歪んでいった。従属させること、僕を正そうとした人間をすっかり僕のものにしてしまおうとすること、その蠱惑的な悦楽に僕の心はすっかり浸りきってしまっていた。そして、それが何よりも僕に吐き気を催させた。
 僕は必死に、がむしゃらに欲を押さえつけながら、声を絞り出した。
「――頼む、頼むから、二度と僕の前に姿を見せないではくれないか……」
 その音は呻き声と区別がつかないほどぐしゃぐしゃで、メイドさんの普段の凛とした顔はぐにゃりと歪んでいった。あ……あ……と幾度か声にもならない声を漏らした後、メイドさんはとぼとぼと部屋を去っていった。ドアを開ける間際、メイドさんは普段の整った表情を取り繕いながら、簡潔で硬固な別れの言葉を述べた。僕は何も返せなかった。

 メイドさんがいなくなった後の生活は悲惨なものだった。悲劇的と呼んでもいい。全くの孤独というのがこれほどまでに痛ましいものだとは思ってもいなかった。僕はずっと呻き散らしていた。ずっと厄介に思っていた大学が恋しくなり、はやく春休みが終わってくれることを切望し続けた。睡眠と覚醒の境が段々と区別出来なくなり、淀みきった精神だけがぐるぐると泥濘のようにうごめいていた。外部からの明確な知覚、すなわち他者が欠落するだけで僕の一切はすっかり腐り落ちてしまっていた。メイド、単なる心慰みの愚かしい妄想であっても、それを棄て去るだけでかくも見事に支えを失ってしまうのかと思うと、自身の情けなさに吐き気を覚えた。なんと弱々しい精神だと自分を嘲笑う度になおのこと腐敗は活き活きと進んだ。
 曜日感覚どころか時間感覚すらも喪失してしまった間、僕はふと夢を見た。
 透き通る夢だった。太陽を遮ることない透明な大地に、無秩序な言葉たちと、静謐な天使の羽根たちが積層している。天使たちは横たわる――無邪気に、動くことなく、彼女らの本当の世界で柔らかな永遠を満喫している。
 ――ああ、俺は君を見たことがある! 君も、君もだ! みなよく知った顔だ! よく覚えているとも、忘れられるはずがないだろう! 君らのその名にそそいだ輝かしい愛を、すっかり鈍麻し病み切ってしまった魂が浴びたあの救済を、いったい誰が忘れようか! 救済、それは間違いなく驕り高ぶった錯覚だった。溺死体のような心に残った醜き所有欲が求めたまったく空疎な倒錯だった――然し、然しだ! 心は紛れも無く、あの時、救われたように感じたのだ! 得ることで得られた救済でなく、仰ぎ見ることで得られた心の安らかなる救済! 仰ぎ見られるものがもたらす心の深くから煌々と湧き出るこの熱情を、ああ、俺はずいぶん長い間感じていなかったようだ。
 俺は孤独を感じながら、それでも身体の隅々が満ち満ちてゆくような感覚を魂に湛えた。世界には静かに澄み切った煌きがたゆたっている。天使たちが脱皮をするように、熱のある翼を遥か高くに掲げるように、若き精神の力強い宣言のように、二つに分かれてゆく、いや、天使そのものは少しも動かず、ただ俺が降下してゆくだけであった。俺は再び天使を仰ぎ見る、卑近な者としてでなく、処方箋としてでなく、彼女らが天使そのものであるように! ――昇れ、昇りたまえ、君よ、君自身の為に!
 さあ、与え得る唯一のもの、このまったく汚れなき純然たる祈りを、この引きずり降ろされた天使たちに捧げようではないか、祝おうではないか! 彼女らが再び天を舞い、不浄なる大地と一切関すること無く、彼女らの身と天空に満ちた黄金を戯れられるように! 天使たちよ、果てなく尊ばれよ!

   *

 目を覚ますと、朝であった。すべてが調和しているように思えた。紅茶を淹れて飲み、煙草の煙を大きく吸い込んだ。胸の奥が気持ち良くなって、頭の中がすっきりとした。凍えるような外気が僕の身体の輪郭を定めて言った。僕は一人で微笑み、沈黙の音を愉しんだ。天使の羽ばたきの鱗粉を感じていた。誰かと話をしたいな、と思った。けれど、今すぐできなかろうとも構わないな、とも思った。
 喫茶店に行くと、やはり篠原がいた。やあ、と僕は挨拶をした。
「元気だったんだね、大宮。何度かメールをしたけど返事もなくて心配してたよ」
「元気ではなかったけどね。まあ、今は快調だよ」店主にコーヒーを頼んで、灰皿を寄せた。「ところでさ、僕は君みたく次のサークルを探すのはやめたよ」
「本当かい、まあサークルでなくとも居場所なんざいくらでもあるからな。飯田みたいにさ」
 僕は上辺だけは同意するかのようにくつくつと笑った。
「飯田、飯田ねえ。そりゃあ恋愛ってのはきっと素晴らしいものなんだろうね、それは間違いないんだろう。でもな、篠原。お前みたいに狡賢く立ちまわって、女を自分のものにする為に人間を裏切り、自分の欲望のために女を作るなんて、僕はそんなげすなことをするくらいなら女なんて欲しいとも思わんね。もっとも、もっと他の恋愛という形もあるだろうけど――ともかく、僕は篠原みたいなことだけは決してしたくないと思ってるんだよ、本当のところはね。あけすけに僕の考えを言ってしまうのならそうなるよ。ああ、僕はいま、君との今までの会話の中でずっとずっとすっきりとした気持ちで話をできているよ。いやね、僕は決して女ってやつの価値を低く見積もろうというわけじゃないんだ。ただただ君のようなことだけはしたくないと思ってるんだ。自分の為だけに女を、いや人間を取り扱おうなんていかにもクズのやり口じゃないか。挙句の果てに居場所なんて言葉を持ち出して自分の行為を正当化する。反吐が出ちまうよ。そんな醜行を理論武装で整えたって、よっぽどのめくらでもない限り誰だって君なんか門前払いに決まってるだろう――」僕は一旦言葉を区切った。篠原はぎょっと目を見開いてこちらを見ていた。決して構うものか――「なあ、篠原。君は僕を軽蔑するかい? 君が僕を軽蔑するというのなら、僕も快く君を軽蔑できるよ」
「俺は」篠原は考えを整えるように間を置いた。「俺は、お前が俺にそんなことを思っていただなんて考えもしなかったよ。気の置ける良い友人の一人だと思ってた。俺は君にすっかり裏切られたように感じている。けれども君はこう言うのだろうな、勝ち誇ったような顔をして。もともと信頼なんてなかった、と。俺は君を信頼していたってのにな。お前にとって信頼を見捨てるのはそんなにも軽々しくやってのけられることなのかい、なあ、大宮」
「信頼しようと思っていたよ、ずっとずっと願ってたんだ。でもさ、無理だったんだよ。お前みたいな奴をさ、信頼できるわけないだろう。居場所を求めるという獣欲に身を委ねて、ところ構わず狡猾に人間を食い荒らして、骨だけが残ったら次の獲物へと飛び掛かる。人間とヒグマの間に倫理が成り立たないのと同じだ。篠原、君は飢えた獣を目の前にして、俺はお前を信頼しようだなんて高らかに叫べるか? できっこないのさ、だから僕は君を信頼するのをやめたのさ」
 篠原は僕を蔑んで強く睨んだ。僕と篠原の縁もこれで終わりで、とうとう話す相手もいなくなるだろうな、と思った。
「なあ、大宮。最後に一つだけ教えてくれんか。俺はこれ以上君を糾弾したくはないからね。ついでに二度と俺に声をかけないで欲しい」「それで――結局、居場所は見つかったか?」
 なんだ、そんな簡単な質問か。なあ篠原、身構えていた僕が馬鹿みたいだぜ。君らしくもない。拍子抜けしてしまったよ。君ならもっと手際よく僕を追い詰めて叩き潰すだろうと思っていたのに。
 僕は悠々と笑って、答えた。
「ないぜ、なかったんだぜ、居場所。全部切り捨てちまったわけだしな。笑えるだろう、蔑まれても仕方がないことだろうよ、でもな、そうだとしてもな! 見ろよ、見てみろよ、僕を! どうだ、確かに在るだろう、それは僕も、君だって認めるだろうよ、僕のこの身体を!」
「大宮! そうやって観念上で物事を解決しようたってそうはいかないぜ! お前が納得したところで、お前の居場所はどこにもないんだ、ただお前がそこに生きてる、それだけのことだ! 居場所を作ろうと腐心する事を怠っただけだろうが! そんなもん、正当化したってどうにもならんぜ!」
「違う、違うぜ、篠原。僕は何も生涯ひとりきりで満足しようっていうわけじゃない。別に居場所が無い時期があったって大した問題じゃない。君は居場所を食わないときっと餓死してしまうだろうけどね!  いいか、今から普通のことを言うぜ。焦るのはみっともないんだ。病的になってしまうと、もう目も当てられない。まるで、次々と人を食い物にしていくように見える。僕は単にそういうことをしたくないってだけだ、ただそれだけなんだぜ、篠原!」
「それでも、お前は孤独であり続けるだけだぞ!」
「構うものかよ!」
 僕はすっかり得意気になっていた。篠原はじっとテーブルを見つめて黙った。僕は勝利を確信した。誇らしい気持ちになった。自分だけが何よりも確かなように思えた。店を出ると予想通りにメイドさんは見えなかった。自分の身体を確かめるように、両腕を大きく広げたり、飛び跳ねたりしながら町中を走り回った。気が良くなって、コンビニでビールを買って、人通りの無い通りのマンホールの上に座り込んで、煙草を吸いながら飲んだ。祝杯をあげるような気分だったが、それ以上に煙の形状が愉快でたまらなく、大声をあげて笑った。煙草の火種がジーンズに落ちて、すぐに消えた。次第に嗚咽が漏れて、呻き声をあげながら、僕はひどく惨めな人間だと思い、路上でうずくまった。

(2014/03月執筆、『しあわせはっぴーにゃんこ』所収、同年05月05日東京文学フリーマーケット頒布)

泉こなたの亡骸に愛を込めて

泉こなたの亡骸に愛を込めて

 かつて、らき☆すたがあった。僕はらき☆すたと共に生活をしていた。……こうした不穏な文章を書いている今、僕の心は毒を盛られたかのようにすっかり麻痺してしまっている。僕は今、泉こなたの亡骸を前にして悲痛に泣き喚くこともなく、ただそれが腐敗していくのをじっと眺めているのだ。嘆きや悲痛を超えた何かをもってして、泉こなたの亡骸を無表情に見ている。ああ、彼女はとうに死んでしまったのだと、そうした事実を確認する心情しか動きはしない。それでも決して彼女の擬似的な死に追悼の意を表さないわけにはいかない。かつて生活を共にしていた最愛の友人の死を悼まない人間が一体どこにいようか?
 泉こなたについて、僕の方から少しばかり説明をさせて欲しいと思う。これを読むあなたがもしよければ、ぜひとも話を聞いていって欲しい。こればっかりは僕の単なるわがままだから、あなたに強要することは出来ないのだ。……。……さて、泉こなたは、あなたも御存知の通り、”典型的なオタク”で、背が小さく、ロリ体型で、髪は青色で長く、ぴょこんと大きなアホ毛が立っていて、体育が得意な女子高生だった。夜通しネトゲをしたり、居間のテレビでゲームをしたり、アニメを観たり、コミケに行ったり、メイド喫茶でバイトをしてたり、そういうオタクな女の子だった。あの時はオタクといえばバンダナでリュックでライトセーバーでシャツインで犯罪者予備軍で、そういう疎まれるべき人々だった。今じゃそこらの女子中高生だってボカロを聴くっていうのに、ともかく当時はそういう時代だった。友人の柊かがみもオタクだった。こなたほどではないけど、ラノベは小説だからオタクじゃないとでも言わんばかりの態度で、オタク趣味がバレないように尽力するような、そういう見栄っ張りな女の子だ。まあ、かがみはこなたみたくオタクであることに誇りを持てなかったんだ。世間体を考えると、それも仕方がないことだ。他にも、柊つかさとか、高良みゆきとか、いろいろな友人がいた。趣味で通じ合うわけでもなく、ただ普通の友人として彼女らは仲睦まじかった。オタクの領野を飛躍して、単なる友人同士として関係を構築していた。自分が関与する余地もなく振り分けられるクラス制度の中でうまくやっていけていた。きっとそれは彼女らの人間性のなし得た偉大なる仕事だったのだと僕は思う。そうした日常こそ、なんとも微笑ましい情景だった。彼女らのじゃれ合いを見るだけでスッと心は晴れやかになったし、こなただって彼女らと共にいる間はよく笑っていた。
 ここまで読んだあなたはきっと「何をさも自分がアニメの中の人間であるかのように語っているのだ」と不快感を覚えるかもしれない、自然なことだ。僕がそういう風に書いたからだ。それを踏まえて、僕はここでひとつの重大な告白をしなくてはいけない。それは、僕は彼女らの日常を、ただモニター越しに観ていたに過ぎなかったのだ。けれども、僕は決してらき☆すたと共に生活をしていたという発言を撤回しない。むろんこれは単に『らき☆すた』の視聴が僕の生活の一部になっていたというだけではない。もっと重要な、『らき☆すた』特有の性質について語らなければならない。決して単なる生活に根付いた感覚ではなく、もっと主体的に切実なものがあったと主張しなくてはいけない。それが何よりも泉こなたに対する最も誠実な態度だし、僕はそれを偽って外面を取り繕うだなんて到底考えることは出来ない。もしそのようなことが出来る人間がいたのなら、僕は何よりも軽蔑するし、倫理の一線を踏み越えてまでナイフを心臓に突き立てかねないだろう。ともかく、『らき☆すた』というのはそれほど真摯な出来事だったのだ。
 ところで、あなたは『おたく☆まっしぐら』という美少女アダルトゲームをご存知だろうか。2006年に銀時計というブランドから発売された田中ロミオがシナリオを担当した育成シミュレーションゲームだ。未完成発売、パッチの中途放棄などと様々な問題を抱えている作品だが、主人公の本郷明は泉こなたと共通するような極めて強固なオタク観を有している。オタクであることに誇りを見出し、人生を捧げるべきだと判断し、なりふり構わずに趣味に傾倒する主人公だった。泉こなたとの差異を述べるのであれば、泉こなたは決してその主義を他者に強要することがなかったという点である。事実、そういったオタクであることにある種の気高さを見出すマッチョな主義の風潮は紛れも無く当時も存在していた。同時に、実際にはオタクであることを公言できずにインターネット上でそれらの趣味や欲望を発散させるような屈折した人々も多かった。それは柊かがみであり、僕でもあった。そんな僕が『らき☆すた』を観るのである。自己投影せずにいられるわけがあるまい。いや、正確には自己投影ではなくらき☆すたの世界に同時に生きているかのような錯覚である。僕はそれが錯覚であることを否定しないし、かと言って彼女らと生きていたように切実に感じていたという事実も否定しない。僕は本郷明のように堅牢ではなかった。らき☆すたは、その程度の僕に訪れた一抹の光だった、自己肯定の嵐だった。
 『らき☆すた』には、今日日の日常アニメには無い特有の性質があった。俗に言う「あるある」で、シンクロニシティでもあった。こなた達は頻繁に「あるある」の話題で盛り上がる。それはオタクならではの「あるある」でもあるし、当時に固有の「あるある」でもあった。それを請け負うのは泉こなたであるし、もっと一般的で生活的な「あるある」を担うのは柊つかさだった。更に言えばそれを解説するのが高良みゆきだったし、「あるある」に対して同感したりツッコミを入れるのが柊かがみであり、また同時に僕だった。こなたが涼宮ハルヒのパロディをする度に僕は切実な共感を覚えてけらけらと笑った。同時に、あたかもかがみのようにおいおい!などとツッコミを入れてしまうような心情も抱いた。『らき☆すた』はオタクな少女を主軸にして展開されるアニメだったから、インターネット上での自分は泉こなたで、現実での自分は柊かがみのようだった。あるいは、共感者として彼女らと接しているかのようにも思えた。『らき☆すた』にはこうした同時代的なリアリティが内在していた。モニターはアニメを映す機械ではなく、インターネット上の人間とコミュニケーションを取る為の機械として『らき☆すた』を映していた。当時に限り、僕と泉こなたと柊かがみと柊つかさと高良みゆきはまったく対等で平等な人格として存在していた。
 それでも無情に時間は過ぎる、月並みな言葉だが、しかしやはり時間は過ぎるのだ。けいおんがあって、ゆるゆりがあって、GJ部があって、きんいろモザイクがあって、ゆゆ式があった。僕はそれらにひどく傾倒した。主人公が悪を打ち砕く物語でもなく、ダークヒーローが正義の鉄槌に抗うのでもなく、少年少女が恋をするのでもなく、単に普通の少女たちが普通に暮らすだけの物語に永遠や無限を見出した。それが僕の精神の一切であるようにも感じられた。アニメを観ているだけで世界のあらゆる可能な事態が僕の前に開かれているように感じた。けれども、いくらアニメを観ようとも、時折思い出したかのように僕の中の泉こなたが僕に語りかけてくるのだ。不意に心に影が差し、自らの罪を暴き返し懺悔を要求するように、泉こなたが僕に問いかけてくるのだ、『らき☆すた』の存在について! 僕は深く苦悩した、『らき☆すた』を見捨てて次のアニメの世界に没入してしまっていいのかと、僕の存在の余地のない世界に傾倒していいのかと、泉こなたのことをすっかり忘れてしまっていいのかと、あの共有した世界や時間について、僕はすっかり過ぎ去ってしまったものとして処理をしてしまっていいのかと! その度に僕は強い後悔の念に駆られて『らき☆すた』を讃えたし、人々にふれて回った。もう一度『らき☆すた』を思い出せと言い、あの頃の精神性を取り戻せと叫んだ。それでも、『らき☆すた』は過ぎるのだ、らき☆すたではなく『らき☆すた』として! 過ぎ去ってしまったらき☆すたは『らき☆すた』として作品名を与えられてしまうのだ、まるで写真にタイトルを付けるかのように、過ぎ去ってしまったものとして記憶を定着してしまうように!
 だからこそ僕は言う、年月が過ぎ、『らき☆すた』の同時代性が陳腐化してしまった今だからこそ言うのだ――泉こなた、僕は君を愛していた、と。これが恋心であったか友情であったかは定かではないが、同志であり、尊敬すべき先導者でもあった泉こなたを、僕は愛していたと表現する他にない。『らき☆すた』は過ぎ、「あるある」というある種の強要的な共感を捨て去った日常アニメが台頭していった現在は、もはや僕は美少女らと対等に接することができなくなってしまった。我々はただ美少女らの戯れを眺めるだけの監視者になってしまった。それに満足してしまうような精神を養ってしまった。それでも、決して屈すること無く、かつての王国が存在したという事実を刻むように、僕の、K坂ひえきのTwitterのbioには、誇らしげにこう記されてある。陳腐化に屈せぬ美しい心情が確かに存在していたのを忘れぬように。「――泉こなた! 俺はその名を聞いたことがある! いつだったかまるで思い出せやしないが、確かにほのかな感情だけは感じられるのだ! そして、俺がその名に輝かしい愛をそそぐ限り、君は永劫に消えることはないのだ! 覚えていてくれ! これだけは確かだ!」
 僕はもはや泉こなたという名を愛していたと宣言することしか出来ない。自分の心情に誠実になるのであれば、それ以上のことは決して出来ないのだ。なんせ、らき☆すたは灰となって散り散りになってしまったし、人々はその灰を上手に完成した世界に昇華してしまったのだから。もはや僕の中には『らき☆すた』という名前しか残っていないのだ。
 僕だって散々泣き叫びたいのは山々だし、泉こなたはそれでも対等に生きていると堂々と宣言したいと心の底から思っている。しかし、しかしだ、郷愁がそれを拒むのだ。泉こなたが愛したものを、僕はもはや新鮮に楽しむことはできない。常に郷愁という悪魔が入り込み、活き活きとしていたはずのそれを泉こなたの存在ごと腐敗させるのだ! だから、僕は僕が愛していた泉こなたそのものに愛を注ぐことはもはや不可能なのだ! 僕に出来るのは泉こなたを愛していたと弁明することと、過ぎ去ってしまった泉こなたに観念上の空疎な愛を捧げようと試みることしか出来ないのだ! きっと、泉こなたが今の僕を観たらきっとこう言うだろう――次のアニメでも観ればいいじゃんって。まったくその通りなのだ。それこそが健全で建設的で合理的な判断だ。でも、泉こなた、僕は君の亡骸に語りかけていると理解していながらもこう考えてしまうのだ。泉こなた、君はそれでいいのかと。このまま永遠にオタクたちの過去として、埋没してしまっていいのかと。彼女がそれにどう返答するのか、僕は想像することを拒む。肯定するのであればあまりにも悲劇的であるし、否定したところで泉こなたにも、僕にも決して手出しすることは出来ないのだから。それゆえに僕は彼女の返答をたとえ空想の内部であれ確定しない。ただ、無力にも空疎な救済の祈りを彼女に捧げるばかりである。
 僕は時折、もっと愚直に泉こなたは俺の嫁などと宣言出来るほどの愚かさが欲しいと望む。あるいは、泉こなたのことなどすっかりと忘れてしまって、次々と放映されるアニメを消費するだけの人間でありたかったと切に願ってしまう。しかし、そうはいられなかったのだ。泉こなたはすっかり死んでしまって、今の僕が見ることができるのは泉こなたの無慈悲な亡骸だけだ。静かに横たわって、あるのか無いのかもわからないような棺の中でぼんやりと存在しているかのように思える泉こなたの死骸だけなのだ。僕が関与する余地もなく、死んでしまった泉こなたの死骸なのだ! 僕にはその亡骸がすべての仕事を終えてまったく満足しているようにも見えるし、これから訪れるだったであろう黄金のようなオタクたちの華々しい時代を迎えられないという事実に為す術もなく打ちひしがれているように見える。彼女はすっかり過ぎ去ってしまったのだから――。
 そしてこれを書いている僕は、泉こなたと僕の関係を単なる悲劇的な物語として昇華させてしまおうとしていることに大きな恐怖を覚えている。決してそんなつもりは無いと言い張りたいところではあるが、事実としてそれは悲劇だ。手のつけようがないほどの悲劇なのだ。泉こなたが現在に為す術がないように、僕にだって泉こなたの為に成し得ることは一切ないのだ。泉こなたの亡骸を前にして、友情と敬意を払うことしかできず、何も彼女のためにしてやることはできないだ。――だからこそ僕は泉こなたの亡骸を泣き喚くことなく眺めている。僕は決して君と再び逢えることを願いはしないし、僕の中から忘れ去られてしまうことを願うことだって無い。死骸を眺めるのだ。ただ、腐敗するその亡骸に愛と追悼を込めて。

(2014/03月執筆、『しあわせはっぴーにゃんこ』所収、同年05月05日東京文学フリーマーケット頒布)